阿野 実廉(あの さねかど)は、鎌倉時代末期から建武の新政期にかけての公卿右中将阿野公廉の子。官位従三位非参議後醍醐天皇の寵妃・阿野廉子(新待賢門院)の兄に当たるが、この縁によって、廉子を中心とする「隠岐閥」の要人となった。

 
阿野実廉
時代 鎌倉時代末期 - 建武の新政
生誕 正応元年(1288年
死没 不詳
官位 従三位非参議
主君 後醍醐天皇
氏族 阿野家
父母 父:阿野公廉
兄弟 実廉廉子季継、妙僧
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経歴

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元亨3年(1323年)以前から鎌倉にあり、右中将として9代将軍守邦親王に仕える。嘉暦3年(1328年)3月従三位に叙され公卿の列に加わり、元徳元年(1329年)12月右兵衛督、同2年(1330年)7月宮内卿に進んだ。この間、引き続き鎌倉に留まって、元弘元年/元徳3年(1331年)11月光厳天皇践祚の際に解官されたらしい。

元弘3年/正慶2年(1333年)5月北条高時の討手から危うく逃れた後、鎌倉に攻め入った新田義貞の軍に加わって軍忠を遂げ、幕府滅亡後は京都に戻ったものの、12月廉子所生の成良親王に供奉して再度鎌倉へ下向する。建武元年(1334年)3月北条氏余党の本間渋谷両氏が叛逆した際には親王を警固し、同2年(1335年)7月中先代の乱が起こると、親王を護って翌月に三河国矢作宿愛知県岡崎市)まで落ち延び、延元元年/建武3年(1336年)正月の山崎合戦に参陣していたことなどが、同年2月の実廉申状断簡(『竹内文平氏所蔵文書』所収「昭慶門院御領目録」紙背文書)によって知られる。同年10月に49歳で出家したが、その後の消息は明らかでない。

なお、佐藤進一によれば、元弘3年8月25日後醍醐天皇綸旨写(『蠧簡集』所収)の宛所である土佐国司「前右兵衛督殿」は実廉に比定されるという。

参考文献

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  • 佐藤進一『日本の歴史9:南北朝の動乱』中央公論社〈中公バックス〉、1971年。 
  • 神奈川県企画調査部県史編集室編『神奈川県史:資料編3』神奈川県、1975年。