間部 詮番(まなべあきつぐ)は、江戸時代中期の旗本赤坂間部家当主・間部詮長の長男。実子に松平外記の殿中刃傷事件で死亡した間部源十郎(詮芳)がいる。

 
間部詮番
時代 江戸時代中期
生誕 元文5年4月19日1740年5月14日
死没 天明2年11月18日1782年12月22日
別名 源十郎、図書(通称
幕府 江戸幕府 小姓組
主君 徳川家治
氏族 間部氏
父母 父:間部詮長、母:不明
兄弟 詮番、女子(安部信久養女・安部信正妻)、女子(一柳直里妻)、遠山則象
正室安部信久の娘、継室:長谷川正脩の娘
詮芳安部昌信(信義)、女子3人
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元文5年(1740年)、間部詮長の長男として生まれる。宝暦13年(1763年)12月、小姓組の番士になり役料300俵支給される。明和2年(1765年)1月、本家にあたる鯖江藩から小姓組入りの祝儀として詮番に「干鯛一箱・御樽代三百疋」、父詮長に「干鯛一箱」が贈られる[1]。同年3月から進物の役をつとめ、明和3年(1366年)12月、赤坂間部家の家督と遺領を継ぐ。天明2年(1782年)8月、三河国宝飯郡伊豆国君沢郡内の知行所下総国相馬郡内へ移封される。同年11月、死去。享年43。家督は長男の詮芳が継いだ。

脚注

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  1. ^ 竹内信夫 1998, pp. 669.

参考文献

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  • 続群書類従完成会『新訂寛政重修諸家譜』第二十二 八木書店、1966年。
  • 竹内信夫「所謂「本所間部家」と「赤坂間部家」について」『地域史研究と歴史教育:森山恒雄教授退官記念論文集』 亜紀書房、1998年。