長野県上田東高等学校

長野県上田市にある高等学校

長野県上田東高等学校(ながのけんうえだひがしこうとうがっこう)は、長野県上田市にある公立高等学校である。

長野県上田東高等学校
地図北緯36度23分40.7秒 東経138度15分47.3秒 / 北緯36.394639度 東経138.263139度 / 36.394639; 138.263139座標: 北緯36度23分40.7秒 東経138度15分47.3秒 / 北緯36.394639度 東経138.263139度 / 36.394639; 138.263139
過去の名称 小県蚕業学校
長野県上田農業学校
長野県小県蚕業高等学校
国公私立の別 公立学校
設置者 長野県の旗 長野県
学区 第2学区
設立年月日 1892年5月10日
(小県蚕業学校)
共学・別学 男女共学
課程 全日制課程
単位制・学年制 学年制
設置学科 普通科
学校コード D120220300035 ウィキデータを編集
高校コード 20129E
所在地 386-8683
長野県上田市常田3丁目5-68
外部リンク 公式サイト
ウィキポータル 教育
ウィキプロジェクト 学校
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長野県上田東高等学校の位置(長野県内)
長野県上田東高等学校

蚕(かいこ)の農家を育成するための学校小県蚕業学校として開校、学制改革の第2段階6・3・3・4制実施による高校発足後も継承していたことでわかるように蚕業授業が主体だったが現校名に改称後普通科主体に移行しまもなく廃止されている。

東(ひがし)という名で地域に親しまれている。

文化祭は「あずま祭」と称し、その名称は校名に由来する。

沿革

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初代校長・三吉米熊
  • 1892年5月10日 - 小県蚕業学校として開校。
  • 1901年4月1日 - 県立に移管。長野県甲種小県蚕業学校に改称。
  • 1944年12月9日 - B-29爆撃機の焼夷弾による空襲を受け[1]、校舎が半焼。
  • 1946年4月1日 - 長野県上田農業学校と改称する。
  • 1947年4月1日 - 長野県上田農業学校併設中学校設立。
  • 1948年4月1日 - 長野県小県蚕業高等学校となる。農業科、林業科、蚕業科を置く。定時制課程を併設。塩田、青木、浦里、泉田、傍陽の分校を設置。
  • 1950年3月31日 - 併設中学校廃止。
  • 1957年3月31日 - 泉田分校を廃止。
  • 1960年3月31日 - 青木分校を廃止。
  • 1960年4月1日 - 普通科を設置。
  • 1961年4月1日 - 校名を長野県上田東高等学校に改称。
  • 1963年3月31日 - 蚕業科廃止。開校以来の伝統だった蚕業授業が消滅。
  • 1965年3月31日 - 浦里、塩田、傍陽分校を廃止。
  • 1966年4月1日 - 家政科を設置。
  • 1969年3月31日 - 定時制課程を廃止。
  • 1974年3月31日 - 農業科、林業科、家政科を廃止。完全普通校となる。
  • 1982年1月 - サッカー部が全国高等学校サッカー選手権大会に初出場。(1回戦:東海大五 0-2)
  • 1988年8月 - 野球部が甲子園に出場。(2回戦:広島商 3-4)
  • 2012年4月 - 学校創立120周年を迎える。

教育目標

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  • 自由な精神と責任・規律を重んじる態度を養う。
  • 平和で民主的な社会をにない、国際社会に生きてゆくために必要な知識と正しい判断力を養う。
  • 教育諸活動への主体的な取り組みを通して、自主性・創造性・協調性に富んだ個性豊かな人格の形成をめざす。

班活動

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運動班

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文化班

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サッカー班

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サッカー班は過去全国高等学校サッカー選手権大会に6回出場しており、すべて1回戦敗退である。1980年代には長野県大会を4連覇した。ユニフォームは緑と紫の縦縞模様である。尚、ここ最近は創造学園松商学園などの私立高等学校が台頭しており、県大会を突破することができていない。

全国高等学校サッカー選手権大会の成績>

著名な出身者

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校章

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  • の葉3枚を放射状に配置し、中心に高の文字。

校歌・応援歌

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校歌
作詞 - 土井晩翠 / 作曲 - 岡野貞一[2]

生徒会誌

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  • 生徒会誌「東風」は「こち」ではなく敢えて「とうふう」と読む

あずま体操

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  • 技の難易度・美しさ・安定性などを基準にする体操ではなく、誰でもできることにポイントを置いた高校独自の体操

最寄駅

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脚注

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関連項目

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外部リンク

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