長崎蓬洲
江戸時代中期の蘭方医
長崎 蓬洲(ながさき ほうしゅう)は江戸時代中期の蘭方医。姓は橘氏、名は寿、字は莱福、医号は玄周、元貞、玄庭。越中国高岡の町医長崎家4代目。
長崎蓬洲 | |
---|---|
生誕 |
明和2年(1765年)9月11日または12日 越中国射水郡高岡 |
死没 |
文政10年8月23日(1827年10月13日) 同上 |
教育 | 長崎玄貞、楢林由仙等 |
親戚 | 子:長崎浩斎、孫:長崎言定 |
医学関連経歴 | |
職業 | 町医者 |
専門 | 外科 |
研究 | 蘭方医学 |
生涯
編集明和2年(1765年)9月11日または12日、富山藩町奉行吉川唯右衛門敬明の次男として生まれた[1]。幼名は橘(吉)五郎[1]。安永2年(1773年)藩士林九郎左衛門忠義と高岡町医長崎玄貞から同時に養子の誘いを受たが、安永3年(1774年)医学を選んで長崎玄貞養子となり、安永4年(1775年)6月高岡に移り、玄周と号した[1]。安永5年(1776年)松田李安山に「大成論」「十四経」等を学んだ[1]。
天明4年(1784年)京都に留学し、新町通下立売上ル楢林由仙に外科、新町通中立売山田清次郎省斎に「論語」「孟子」「詩経」「近思録」等を学んだ[1]。仁和寺臣某の病を治して深仁入道親王に拝謁を許され[2]、10月5日法橋となり、元貞と称した[1]。
天明6年(1786年)秋、二上山慈尊院で窃盗を行い負傷した小僧を藩に許可なく治療したとして罰せられた[2]。文政2年(1819年)浩斎に家督を譲った[2]。
文政10年(1827年)8月23日舌痱(脳器質性機能障害か)を患い[1]、文政12年(1829年)4月山中温泉に療養するも、10月16日身体不自由となり[2]、12月9日朝死去した[1]。法名は釈純敬信士。
著書
編集- 『蓬洲随筆』
- 『辛亥日記』
- 『解体略図』 - 吉川敬周に描かせた。
家族
編集脚注
編集参考文献
編集- 寺畑喜朔「長崎浩斎の年譜と系譜」『北陸医史』第13巻第1号、1992年
- 正橋剛二「長崎蓬洲の年譜について」『医譚』通号第69号、1995年11月
- 正橋剛二「高岡長崎家収蔵の『寥山翁方集』をめぐって―仮称『越中天明類聚方』」『医譚』通号第70号、1996年5月
- 正橋剛二「長崎蓬洲の年譜について―補遺」『北陸医史』第28巻第1号、2007年2月