長孫子裕(長孫稚の子)の子として生まれた。博覧強記で、機知に長け、談論を得意とした。534年(永熙3年)、北魏の孝武帝が関中に入ると、長孫兕はこれに従った。鄴県侯の別封を受けた。566年(天和元年)、驃騎大将軍・開府儀同三司・熊絳二州刺史に進んだ。平原県侯の爵位を受けた[2]。同年10月、死去した[3]。勲絳晋三州諸軍事・勲州刺史の位を追贈された。
- ^ 『周書』および『北史』は長孫兕の字を若汗とする。ここでは墓誌による字の義貞を採用する。なお『北史』では長孫兕は義貞の弟とされるが、王連龍『新見北朝墓誌集釈』(中国書籍出版社,2013年)p.174はこれを誤記とみなしている。
- ^ 『北史』は平原県公とするが、墓誌により平原県侯と改める。
- ^ 墓誌に天和元年10月29日に殯(通夜)がおこなわれたことが見える。
- ^ 『北史』には長孫兕の子として長孫熾と長孫晟のふたりが見える。墓誌には伯謩・仲熾・鵝王・多宝の4人の子が見える。王連龍前掲書p.174は、仲熾を長孫熾、鵝王を長孫晟とみなしている。
- 『周書』巻26 列伝第18
- 『北史』巻22 列伝第10
- 抜抜兕墓誌(長孫兕墓誌)
- 魏左光禄大夫散騎常侍開府儀同三司平原侯長孫公妻周城郡君薛氏墓誌(長孫兕妻薛氏墓誌)