鋼鉄の嵐の中で』(こうてつのあらしのなかで、ドイツ語原題:In Stahlgewittern)は、1914年12月から1918年8月までの第一次世界大戦中における西部戦線での戦闘体験を日記の体裁で記した、エルンスト・ユンガーによる戦争文学である。

鋼鉄の嵐の中で
In Stahlgewittern
著者 エルンスト・ユンガー
発行日 1920年
ジャンル 戦争思想
ドイツの旗 ドイツ国
言語 ドイツ語
形態 戦争文学
日記文学
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本著作は、作家としてのエルンスト・ユンガーの名声を確立した。同時代の人々やその後の批評家の間では、戦争の凄惨さ全てを表現した作品との評価を受けているが、著者であるユンガー自身は戦争それ自体を明確に非難したり、或いは政治的目標や手段とはしていない。また、本作品は一種の反戦作品としても解説されている[1]。政治的、道徳的な立場から離れていたユンガーの戦争体験は内的体験に留まり、同じ前線兵士の精神を代弁するものとして、大戦後の新ナショナリズムのバイブルとなったが、著者は戦争という極限状態における人間の生存、特にそのエネルギーの重要性を捉えていた。

概要

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この作品は、大戦後に編集した自身の戦闘日記の記述に基づいている。素材となった日記そのものは、2010年ヘルムート・キーゼルドイツ語版によって出版された[2]2013年にはヘルムート・キーゼル編の歴史批評版が出版されている。

ユンガーは作品の完成後、11回の改訂を行い(12の改訂版が存在する)、7つの改訂版が、ドイツ国内において出版された(1920年1922年1924年1934年1935年1961年1978年[3]。そのため、どの版が完成版と言えるのかが問題となっている。この点については、主に2つの解釈のがある。

初版には最も独創的な箇所が多々、見受けられるが、これは決定版とされ、後に出版されたものは政治的問題に関連する記述が追加されたものであるため、増補版と見なされている。

もう一方で、全ての改訂版を一つの作品群として解析する必要があると主張する見解がある。それぞれの内容の変遷を辿ることで、本著作の核心となるものを明らかにする唯一の手懸かりとなるからである。

改訂版の内、1924年と1934年の2つの版については、その変更の度合いと意図から特に重要なものとして扱われている。1920年代に発刊されたものは、新ナショナリズムの精神に即して内容が編集されており、末尾には以下のような一文が追加されている。

外からの暴力と内からの野蛮とが暗雲となって立ち込もうとも、刃の炎が暗闇の中で明滅する限り、国家は生きており、滅びることはないであろう!

1930年代に入ると、ユンガーはこの版を大幅に改訂し、国粋主義的な節をほとんど削除した。1933年8月19日の第14版の序文において、ユンガーはそれを「最終版」と記している[4]。その後の改訂版では、おそらくより幅広い層の読者の獲得のため、戦争の残虐な描写は和らげられ、専ら文体の構成に焦点を合わせられている[5]

戦闘体験

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本著作において度々言及されている戦友の一人、ハインリヒ・ハンブロック(左から2番目)とユンガー(右から2番目)

ユンガーは、1915年の春にシャンパーニュの戦闘で負傷した後、歩兵将校となるために訓練を受け、アラス地域での塹壕戦に精通した若い志願兵の視点で戦闘や作戦などについて説明している。翌年の戦闘(ソンムの戦い第3次イーペル会戦カンブレーの戦い1918年春季攻勢)に参加する過程で、彼は経験豊富な「特攻隊Stoßtrupp、衝撃隊とも)」の隊長(Stoßtruppführer)に任官した。特攻隊は主に膠着した塹壕戦の突破を目的とした部隊であり、その兵士の多くは最前線で戦い、幾度となく負傷し武功をあげている(ユンガーはこの点について自らの著書においてしばしば言及している)。ユンガーも彼らと同様、戦闘において何度か武功をあげ負傷し、危険な状況にも陥ったが、やがて長い戦闘の体験により、ユンガーは戦争に対して義務感よりも好奇心と冒険心への渇望を見いだすようになり、精神が駆り立てられ、信じられないほどの幸運と述懐している。

戦争表現と解釈

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『鋼鉄の嵐の中で』においてユンガーは、戦争を人間が自然の力に翻弄される事象と見なしている。これは、作品の題名と同様、比喩的に表現されており、戦争が「嵐[6]」または「自然の光景[7]」と表現され、本文の他の箇所においても散見できる。

文学史の観点から、本作品は、表現主義文学とは対照的に、新即物主義の範疇として見ることができる。

『鋼鉄の嵐の中で』は、戦争の凄惨さを生々しくリアルに描く一方でその描写は冷静さを保っている。他の戦争体験者による同様の作品群(エドレフ・ケッペンドイツ語版の小説『陸軍軍報ドイツ語版』やエーリヒ・マリア・レマルクの『西部戦線異状なし』など)とは異なり、戦争における事象や自身の行動に対して疑問を呈するのではなく、戦争そのものとそれに伴う感情を言語化し、高度に描写した点に特徴がある。また、戦闘による殺傷の意味が問われるのは、ごく一部の箇所に留まっている。

ユンガーが随所で「男性的」と表現している勇敢で冷酷な前線での戦闘、とりわけ彼がしばしば熱狂的に経験した「男と男の衝突」である白兵戦への嗜好である。そのため、これらは戦争の肯定、あるいは美化として何度も非難された。言いようのない恐怖や苦難、そして著者が決して相対化し得ない致命的な深刻さにもかかわらず(あるいはそれゆえに)ユンガーによれば、戦争はある者達にとっては「全き気晴らし(eben Spaß)」として出現しており[8]、これら兵士の様を本作品において劇的に表現している。

戦争の意味や正当性についての考察はなく、有機的、運命的事象として戦争を描き、それを受け入れ、愛国的な言辞やナショナリズムによる戦争の正当化といった政治的発言は、本作品には一切見られない(せいぜい、最初の帰国休暇中のナショナリズムに関する記述が引用される程度である)。

ユンガーはまた、敵国の兵士についても敬意を持って描いており、ドイツ人を特別に優遇することはなかった。後の版の序文においてのみ、ユンガーは比較的曖昧な形で、彼の作品の思想的解釈の可能性について言及している(ワイマール共和国時代、著者が親しかった保守革命派、反共和制・民族主義団体などのイデオローグという意味において)

史料としての意義

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第一次世界大戦における戦術の変化に関する彼の記述は、一つの軍事史としても読み取れる。特筆すべきは、連合軍側の物量および人的な優位性とドイツ軍の荒涼とした供給状況を考慮して、ユンガーが戦争の最終局面におけるドイツ軍の絶望的な状況を率直に認めているという事実にある。そのため、彼自身が大戦後に右翼の間でもてはやされた「背後の一突き」の伝説とは無縁であったことが窺える。

後の作品への影響

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1920年代にユンガーは、『鋼鉄の嵐の中で』に加えて、幾つかの戦闘経験に基づく著書を出版している。

  • 『内的体験としての戦争(Der Kampf als inneres Erlebnis)』 ― 1922年
  • 『嵐(Sturm)』 ― 1923年
  • 『炎と血(Feuer und Blut)』 ― 1925年
  • 『125号林(Das Wäldchen 125)』 ― 1925年

後期の作品群がより内省的で体系的な知的構造を持つのとは対照的に、『鋼鉄の嵐の中で』は、構造的に非常に簡潔な、戦線での著者の体験を日記風に記したもので、その即物性とリアリズムによって読者に影響を与え、包括的に考察すべきものをほとんど含んでいない。『 炎と血』(1925年)と『125号林』(1925年)では、『鋼鉄の嵐の中で』において既に扱われている2つの話題を取り上げ、より詳細に記している。両作品とも1914年の戦争の熱狂と幻滅を扱っているが、『鋼鉄の嵐の中で』において、既に戦争の無意味さをユンガーが確認していたとすれば、以下のような描写が彼の戦争文学の核となっている。後期の作品群におけるユンガーの戦争描写は、軍事的、戦略的問題ではなく、むしろ、物的、人的共に多大な努力と犠牲を払って戦ったにもかかわらず、無意味な敗北に終わったという事実を焦点においたものであり、ユンガーにとって戦争の本質的な意義を構成するのは、この献身と敗北という矛盾の問題である。個人の実存の諸問題に直接触れるユンガーの生きた象徴的言語は内観と外界とを自ら照応させる結晶作用をもった「魔術的零点」そのものである。敗戦の夕べ、連合軍の隊列を遥かに窓辺から望見しながら「敗北せる大地は我等に星辰を贈る」と記している。

引用

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狩猟の熱意を持ってその任務を試みるものがいる。(...)
ある時は、自分の持ち場の前の障害物に細い道を作り、迷い込んだ斥候を銃口の前のこの便利な通路に誘い出したり、またある時は、反対側に忍び込んで針金に鈴を結び、長い糸で自分の塹壕から引っ張ってイギリスの歩哨を撹乱させている。彼等は唯々、戦争を楽しんでいる。 — S. 54-55
彼が起き上がるやいなや、塹壕から飛び出した弾丸が彼の頭蓋骨を貫いた。(...)
彼は結婚しており、4人子供をもうけていた。分隊は長い間、袂に潜んで敵の血を求めている。(中略)連中は、致命傷を喰らわせた敵への憎悪を露わにしているようだ。 — S. 64-62
大戦中、私は常に敵を憎むことは控え、彼等の勇気に従って彼を一人の男として認めるように努めた。それと同時に、私は彼等を殺すために、戦いで彼等を探すためにあらゆる努力をした。そして何も期待はしていなかった。(...)
その後、彼等が捕虜として私の手に落ちたとき、私は彼等の身の安全に責任があると感じた。 — S. 65
我々は、クリスマスイブをその場で過ごし、泥の中に立ってクリスマスキャロルを合唱したが、イギリス兵はそれを機銃掃射によって掻き乱した。(...)
その直後、イギリス兵が胸壁(Brustwehr)にクリスマスツリーを置いて友好的な姿勢を試みたが、我が猛者たちの数発で一掃された。 — S. 66
結局のところ、心の弱い者は強い臆病者よりも優れている。 — S. 134
我々が通った村々は、まるで狂気の館のような様相を呈していた。部隊ぐるみで建物の壁を壊したり、屋根の上に座って瓦を叩き割ったり。(...)
私はここで初めて、私が後年うんざりするほど遭遇することになる計画的破壊を見た。それは、この時代の経済思想と不吉に結びつき、また破壊者に益よりも害をもたらし、兵士に名誉をもたらさない。 — S. 144-145
どういうわけか、些細な神経でさえ、生命の永遠の回帰へと移り替わっており、個人の死はそれほど重要な事象ではないことを疑わざるを得なくなる。 — S. 157
戦争は大学だが、その代償は高くつく — S. 192

おもな刊行本

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  • Ernst Jünger: In Stahlgewittern. Ein Kriegstagebuch. Mittler & Sohn, ― (1934年ベルリン第14版、1919年12月から1933年8月までのユンガーの序文)
  • Ernst Jünger: Sämtliche Werke. 18 Bände, Band 1: Der Erste Weltkrieg. Klett-Cotta, Stuttgart 1979 f., ISBN 978-3-608-93471-7. ― (1920年の初版となっているが、実際には1978年の第7版または最終版)
  • Ernst Jünger: In Stahlgewittern. Klett-Cotta, Stuttgart 2014, ISBN 978-3-608-96070-9. ― (1978年、第7版)
  • Ernst Jünger: In Stahlgewittern. Klett-Cotta, Stuttgart 2013, ISBN 978-3-608-93946-0. ― (全改訂版からの記述を含む重版)

その他

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  • Stahlgewitter ― (『戦時日誌1914-1918(Kriegstagebuch 1914–1918)』というタイトルで公開されたユンガーによるメモに基づく[9][10]

日本語訳

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  • 『鋼鉄のあらし』佐藤雅雄 訳、先進社、1930年。

脚注

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  1. ^ Vgl. Steffen Martus: Ernst Jünger. Metzler, Stuttgart 2001, S. 18 f.
  2. ^ Ernst Jünger: Kriegstagebücher 1914–1918. Herausgegeben und kommentiert von Helmuth Kiesel. Klett-Cotta-Verlag 2010, ISBN 978-3-608-93843-2.
  3. ^ Ernst Jünger: In Stahlgewittern. Klett-Cotta, Stuttgart 2013, ISBN 978-3-608-93946-0, S. 9.
  4. ^ Ernst Jünger: In Stahlgewittern. Ein Kriegstagebuch. Mittler & Sohn, 14. Auflage, Berlin 1934, Seite IV.
  5. ^ Steffen Martus: Ernst Jünger. Metzler, Stuttgart 2001, S. 22, dort auch weitere Literaturhinweise.
  6. ^ Ernst Jünger: Sämtliche Werke. Band 1, S. 68.
  7. ^ Ernst Jünger: Sämtliche Werke. Band 1, S. 85.
  8. ^ Ernst Jünger: Sämtliche Werke. Band 1, S. 55.
  9. ^ Helmuth Kiesel(Hrsg.): Ernst Jünger: Kriegstagebuch 1914–1918. Klett-Cotta Verlag, 2010, ISBN 978-3-608-93843-2.
  10. ^ Hubert Spiegel (2010年12月19日). “Der Stenograf des Todes. Buchbesprechung von Kriegstagebuch 1914–1918”. Deutschlandradio. 2019年5月13日閲覧。