鋸喩経
鋸喩経[1](こゆきょう、巴: Kakacūpama-sutta, カカチューパマ・スッタ)とは、パーリ仏典経蔵中部に収録されている第21経。
経名は「ノコギリの喩え」を意味する[2]。釈迦の教えを学ぶ者は、のこぎりによって、手足を切り落とされた時であっても、争いの世界に堕することが無いようにせよ、という教えである[3]。
構成
編集登場人物
編集場面設定
編集そのころ比丘パッグナは、比丘尼たちと過度に仲良くしていたが、そのことで他の比丘たちから批判されると、パッグナは怒り、不愉快になり、言い争いを起こした。
困ったある比丘は、釈迦にパッグナに相談すると、釈迦はパッグナを呼び出し、出家者の心構えを確認した。
さらに釈迦は、悪口をさけ、慈しみの心をもち、怒りをさけることを説いた。
また釈迦は、かつてサーヴァッティーに存在したヴェーデーヒカー居士のエピソードを説き、怒りがもたらす結果を説明した。
そして他人に話しかけるときに使用すべき、5つの言葉について説いた。
内容
編集釈迦はこの経において、出家したものは、在家的な欲望や、在家的な思いを捨てるべきである、ということを説いた[2]。その喩として、盗賊に手足を切り落とされた時であっても、心を乱すことなく、怒りのこころを抱かないように実践せよ、と説いている[2]。
初期の仏教においては、在家的な欲望を捨てるとは、煩悩の三つの束縛を捨てると言うことを意味していた。そうするならば、悪所におもむかず、正しい目覚めに至ることができるとされている。[4][5]
在家的な欲望や、在家的な思いを捨てるべきである、ということは、出家しないと実現が不可能な修行であるといえる。そのため、このことは、ゴータマが、家族を捨てて出家した動機につながっていると見ることができる。
五つの言葉
編集Pañcime bhikkhave vacanapathā yehi vo pare vadamānā vadeyyuṃ:
kālena vā akālena vā, bhūtena vā abhūtena vā, saṇhena vā pharusena vā, atthasaṃhitena vā anatthasaṃhitena vā, mettacittā vā dosantarā vā.比丘たちよ、他人があなたがたに話しかけるときに使用する、言葉の種類が五つある。
適した時機に語る、もしくは適さない時機に語る、
真実に基づいて語る、もしくは虚実を語る、
柔和に語る、もしくは粗暴に語る、
有益に語る、もしくは無益に語る、
慈しみの心で語る、もしくは怒り(dosantarā)の心で語る。Tatrāpi vo1 bhikkhave evaṃ sikkhitabbaṃ:
na ceva no cittaṃ vipariṇataṃ bhavissati. Na ca pāpikaṃ vācaṃ nicchāressāma. Hitānukampī ca viharissāma mettacittā na dosantarā. Tañca puggalaṃ mettāsahagatena cetasā pharitvā viharissāma. Tadārammaṇañca sabbāvantaṃ lokaṃ mettāsahagatena cetasā vipulena mahaggatena appamāṇena averena abyāpajjhena pharitvā viharissāmāti.
Evaṃ hi vo bhikkhave sikkhitabbaṃ.そのために比丘たちよ、このように学ぶべきである。
私たちは、心(citta)が変化しないようにしよう、 私たちは、悪しき言葉を発さないようにしよう。
私たちは、情ある者(anukampī)、慈しみ(metta)の心ある者、瞋恚(dosa)なき者として生きよう。
私たちは、その人を慈しみの心によって満たそう、またすべての世界に対しても、増大した、増幅した、超越した、無量の、害意なき、慈しみの心で満たして住足して生きよう。
まさに比丘たちよ、このように学ぶべきである。
それに加えて、この経では、一切の世界を無限の慈悲の想いで満たせということが言われている。[6]在家的な欲望を捨てるためにゴータマが出家したように、一切の世界への無限の慈悲の想いというものも、ゴータマの求道の動機であった、ということが考えられる。
日本語訳
編集脚注・出典
編集- ^ 『南伝大蔵経』、『原始仏典』中村、『パーリ仏典』片山
- ^ a b c d e アルボムッレ・スマナサーラ『怒りの無条件降伏 中部経典「ノコギリのたとえ」を読む』日本テーラワーダ仏教協会、2004年。ISBN 978-4902092066 。
- ^ 矢辰夫 2004, 前書きP304.
- ^ 手足を切り取られるというのは尋常ではないと思われるが、仏典には、獅子に食べられている最中に悟った話や、盗賊であったアングリマーラ長老の話もある。こうした喩は、仏教が始まったばかりの時には、身近なものであったのかもしれないようだ。
- ^ 出家者はもとより、在家の修行者であっても、如来に対する信仰や尊敬をわずかでも持つ者は、すべて天に至るとされている。手足を切り取られても、怒りや恨みを抱かないためには、肉体を自分と見る束縛を捨てることを学び、如来に対する信仰や尊敬が充満する天にて、修行の継続をすることを念ずることが肝要なこととなっていたのではないかと思われる。 (矢辰夫 2004, p. 342)
- ^ そのことは、四無量心における慈悲のこころとは少し違った点が見受けられる。四無量心はどちらかというと、観念的・瞑想的な実践の心のあり方を説いているといえる。しかし、一切の世界というのは、三千世界を意味しているようでもある。そこを無限の慈悲の想いで満たすという実践をしている存在は、「如来」を指している。そのため、如来に対する信仰や尊敬を持ち、三つの束縛を捨てることが、一切の世界を無限の慈悲の想いで満たすことと密接につながっていると見ることができる。そしてこの場合の如来とは、ゴータマ・ブッダを指している。(矢辰夫 2004, p. 317)
参考文献
編集- 中村元監修 羽矢辰夫訳『原始仏典第4巻 中部経典Ⅰ』春秋社、2004年、第21経 怒りのこころと慈しみのこころー鋸喩経。ISBN 978-4393112243。。