鈴木芳如
明治・昭和期の俳人
鈴木 芳如(すずき ほうじょ、別名:すずき ほうにょ[1]、1884年(明治17年)6月16日[1][2] - 1972年(昭和47年)11月15日[1][2])は、明治・昭和期の俳人。本名、よ志[2]。文具店「オカモトヤ」の会長も務めた。
鈴木 芳如 | |
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誕生 |
俵よ志 1884年6月16日 日本東京府麹町区 |
死没 | 1972年11月15日(88歳没) |
職業 | 俳人 |
言語 | 日本語 |
ジャンル | 俳句 |
代表作 | 雑誌『こよろぎ』、文集『串柿』 |
配偶者 | 鈴木安二 |
経歴
編集1884年(明治17年)、士族の娘として東京府麹町区(現在の東京都千代田区麹町)に生まれる[2]。
18歳の時、写真技師を志し神田小川町の写真館に勤める[2]。 1908年(明治41年)、写真館の主人の息子である鈴木安二と結婚[2]。二男二女をもうける。夫・安二の事業失敗により[2]、1912年虎ノ門に[要出典]文具店を開業した[2]。のちに「オカモトヤ」を創業。
夫の安二が亡くなると[2]、家業の傍ら俳句を志して黒岩漁郎、竹原泉園に師事[2]。「さつき」「欅」の門をたたく。1940年頃より原石鼎に師事し[2]、「鹿火屋」にも参加。池内たけしにも学んでいる[2]。
1943年(昭和18年)[2]、神奈川県大磯町にある鴫立庵の18世庵主となる[1][2]。
1948年(昭和23年)、句誌「こよろぎ」を主宰[2]。中村汀女、深川正一郎らも参加していた。
1949年(昭和24年)に貞明皇后が鴫立庵に行啓、1951年(昭和26年)には西行の歌碑(佐々木信綱揮毫)を庵内に建立する。毎年3月に行われる大磯町の「西行忌」は、芳如の発案とされている。
1962年(昭和37年)、高齢を理由に鴫立庵庵主を山路閑古に譲る[2]。
1972年(昭和47年)、350号をもって「こよろぎ」を廃刊[2]。同年、句道発展の功により、勲六等宝冠章を授与される。同年11月15日、死去[2]。
代表句
春の海 ささら波して 遠からず (鴫立庵内の芳如句碑「ささら波」より)
著書
編集脚注
編集参考文献
編集- 日外アソシエーツ株式会社/編 編『人物レファレンス事典 昭和〈戦後〉・平成編2〈2003-2013〉あ-す』(新訂増補)日外アソシエーツ、2013年。ISBN 9784816924392。
- 芳賀登・一番ヶ瀬康子・中嶌邦・祖田浩一/監修 編『日本女性人名辞典』(普及版)日本図書センター、1998年。ISBN 4820578812。