金須嘉之進
日本の演奏家、聖歌指揮者、作曲家 (1867-1951)
金須 嘉之進(きす よしのしん、1867年3月26日(慶応3年2月21日)[注釈 1] - 1951年4月7日[3])は演奏家・聖歌指揮者・作曲家。正教徒であり、聖名はインノケンティ。主に日本正教会で聖歌の指導・聖歌の作曲等で活躍したほか、世俗の領域でも各種音楽教育に尽力した。ニコライ・リムスキー=コルサコフに師事。弟子に古関裕而がいる[1]。
金須 嘉之進 | |
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別名 | インノケンティ中川[1] |
生誕 | 1867年3月26日[注釈 1] |
出身地 | 日本 宮城県仙台市 |
死没 | 1951年4月7日(84歳没) |
ジャンル | クラシック音楽 |
職業 | 演奏家、聖歌指揮者、作曲家 |
略歴
編集中村理平の著書[7]に基づく。
- 1867年3月26日(慶応3年2月21日)[注釈 1]、当時の仙台藩で生まれる。
- 1881年 - 東京府神田区駿河台にあった正教会の神学校に入学、ヤーコフ・チハイやドミートリー・リヴォフスキー[注釈 2]などに音楽を学んだ。
- 1891年夏 - リムスキー=コルサコフが副院長を務めるサンクトペテルブルクの帝室附カペーラ声楽院(Императорская Придворная певческая капелла)に留学[注釈 3]、リムスキー=コルサコフに指揮法と聖歌を、ニコライ・ソコロフに和声法を師事。ヴァイオリン、ピアノの奏法のほか、聖歌指揮法および作曲理論を習得[14][15][16][9]。
- 1894年(明治27年) - 帰国。1919年(大正8年)まで25年間、リヴォフスキー、小原甲三郎(おばら こうさぶろう)、東海林重吉(とうかいりん じゅうきち)らと共にニコライ堂などで聖歌隊の指導に当たる[17]。神学校、女子神学校の音楽担当者となった[18]。
- 1895年(明治28年)3月 - 本郷中央会堂での慈善音楽会で、ラファエル・フォン・ケーベルらとともにヴァイオリンを演奏。
- 1897年(明治30年)- 駿河台鈴木町に私塾の成楽舎を開いてヴァイオリン、オルガン、楽典、和声法、ソルフェージュを教えた[3][19]。
- 明治音楽会(1898年結成)にヴァイオリン奏者として参加[3]。
- その後、満洲鉄道のロシア語通訳としてハルピンに駐在するなどしたのち、関東大震災後は仙台に移り、宮城県女子師範学校、吉田女学校、宮城県女子専門学校などで教鞭をとる。青葉音楽院を主宰し地域の音楽教育に貢献。この頃に福島県の川俣銀行(現東邦銀行川俣支店)に勤務していた古関裕而と知り合う。
- 1939年(昭和14年) - 東京大森に移転。
- 1943年(昭和18年) - 鎌倉に移住。
- 晩年に再度半年ほど、ニコライ堂の聖歌指導を担当(年月不詳)
- 1951年(昭和26年)4月7日 - 84歳で永眠。
作品
編集正教会聖歌
編集- 常に福にして - 1925年(大正14年)11月18日作
- 平和の憐み - 1926年(大正15年)2月16日作
- 天主經(主の祈り) - 1927年(昭和2年)2月11日作
- ヘルヴィムの歌 - 1935年(昭和10年)7月20日作
歌曲
編集大学歌・校歌
編集- 慶應義塾大学(旧塾歌)(作詞:角田勤一郎)1904年 (明治37) [20]
- 聖和学園短期大学校歌(作詞:国安康嶺)
- 宮城県石巻女子高等学校(作詞:渡辺義丸)
- 宮城県石巻好文館高等学校(作詞:渡辺義丸) - 外部リンク:宮城県石巻好文館高等学校校歌
- 荒浜小学校(作詞:武田直衛) - 外部リンク:荒浜
参考文献
編集- 金須嘉之進「ペトログラード音楽院の憶ひ出」『月刊楽譜』 23巻、3号、松本楽器、1934年3月、54-56頁。NDLJP:11004546 。2022年5月30日閲覧。
- 大沼魯夫「正教聖歌に就て」『正教時報』 28巻、7号、正教時報社、1939年7月、25-31頁。NDLJP:6080337 。2023年1月4日閲覧。
- 牛丸康夫『日本正教史』日本ハリストス正教会教団府主教庁、1978年。
- 中村理平『キリスト教と日本の洋楽』大空社、1996年。
- 中村洪介『近代日本洋楽史序説』東京書籍、2003年、680-681頁。
- 手塚晃、国立教育会館『幕末明治海外渡航者総覧』柏書房、2004年。
- Potapov, Alexei『明治期日本の文化における東方正教会の位置および影響 : 東京大学大学院総合文化研究科超域文化科学専攻比較文学比較文化研究室修士学位論文』日本ハリストス正教会教団東京大主教々区宗務局、2004年。
- 「金須 嘉之進」『日本の作曲家 : 近現代音楽人名事典』細川周平、片山杜秀 監修、日外アソシエーツ、2008年、224頁。
- 大嶋かず路「明治期日本におけるロシア音楽受容 : 正教会と音楽学校の功績およびその影響関係について」『上智ヨーロッパ研究』第6号、上智大学、2014年、165-189頁、NAID 110009737022、2020年10月8日閲覧。
- 城元智子、北原かな子「金須嘉之進と「帝室附カペーラ声楽院」 : 東北地方におけるキリスト教受容に関連して」『青森中央学院大学研究紀要』第28号、青森中央学院大学、2017年9月、31-44頁、ISSN 1344-9990、NAID 40021421919、2020年10月8日閲覧。
脚注
編集注釈
編集- ^ a b c 生年月日を1866年[2]、慶応2年2月21日(1866年4月6日)[3]、1867年2月21日[4]、1868年[5]とする説もある[6]。
- ^ Dmitrii Livovskii (Дмитрий Константинович Ливовский[8] [Львовский], 1854-1920). 姓はリオフスキー、名はデミトリーやデミトリイとも表記される[1]。
- ^ 金須の留学先について、中村理平の著書[7]と大嶋の論文[9]では「ペテルブルグ音楽院」、中村洪介の著書[10]と『幕末明治海外渡航者総覧』[11]では「ペテルブルグ帝室音楽院」としているが、金須自身[12]は「帝室附カペーラ声楽院」と記述している[13]。
出典
編集- ^ a b c 城元 & 北原 2017, p. 34.
- ^ 富田仁 編『海を越えた日本人名事典』日外アソシエーツ、1985年。
- ^ a b c d 細川 & 片山 2008.
- ^ 手塚晃、国立教育会館 編『幕末明治海外渡航者総覧』柏書房、1992年。
- ^ 日本キリスト教歴史大事典編集委員会 編『日本キリスト教歴史大事典』教文館、1988年。
- ^ 中村 2003, p. 742.
- ^ a b 中村 1996, pp. 98–99.
- ^ 中村 2003, p. 680.
- ^ a b 大嶋 2014, p. 177.
- ^ 中村 2003, p. 681.
- ^ 手塚 2004.
- ^ 金須 1934, p. 55.
- ^ 城元 & 北原 2017, p. 35.
- ^ 金須 1934.
- ^ 城元 & 北原 2017, p. 39.
- ^ Potapov 2004, p. 58.
- ^ 大沼 1939, p. 26.
- ^ 中村 2003, pp. 679–681.
- ^ 中村 2003, pp. 681, 742–743.
- ^ 「ステンドグラス」 塾歌に歴史あり 1904(明治37)年制定の旧塾歌とその周辺|慶應義塾 2020年4月24日閲覧。
関連項目
編集- ニコライ・カサートキン - 日本正教会の亜使徒・大主教。聖人。
- パーヴェル・チェスノコフ - 金須と同時代にロシア正教会で活躍した正教会聖歌作曲家。ソ連政府による宗教弾圧の下で、聖歌作曲を禁じられる。
外部リンク
編集- 渡辺義丸先生、金須嘉之進氏について - 宮城県石巻好文館高等学校のページ
- 明治文化とニコライ - 日本ハリストス正教会のページ。金須がニコライ堂の聖歌指揮者として活躍していた事が記されている。
- 仙台正教会の沿革 - ウェイバックマシン(2002年12月11日アーカイブ分) - 仙台ハリストス正教会のページ。金須が仙台の聖歌隊の指導にも当たって居た事が記されている。
- 『慶應義塾豆百科』 No.66 塾歌制定の経緯 - 慶應大学のページ。金須が作曲した旧塾歌について若干の説明あり。
- 宮城県女子専門学校資料展 展示目録
- http://asano-hammond.com/ ジャズハモンドオルガニスト 浅野仁 - 金須嘉之進の曾孫 慶應義塾出身