金益鉉
金 益鉉(キム・イクヒョン、朝鮮語: 김익현、1922年[注 1] - 2009年1月15日)は、朝鮮民主主義人民共和国の軍人、政治家。朝鮮労働党中央委員会委員、朝鮮労働党中央軍事委員会委員、人民武力部副部長、朝鮮労働党民間防衛部部長など要職を歴任した。朝鮮人民軍における軍事称号(階級)は次帥。抗日パルチザン世代の1人である[2]。 金益賢とも表記される[3]。
金益鉉 김익현 | |
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生年月日 | 1922年 |
出生地 | 日本統治下朝鮮 黄海北道 |
没年月日 | 2009年1月15日(87歳没) |
死没地 | 朝鮮民主主義人民共和国 |
出身校 | 金日成高級党学校 |
所属政党 | 朝鮮労働党 |
称号 | 金日成勲章、共和国二重英雄 |
最高人民会議代議員 | |
当選回数 | 3回 |
在任期間 |
1972年12月 - 1977年11月 1998年7月 - 2009年1月15日 |
最高指導者 |
金日成(1948年 - 1994年) 金正日(1994年 - 2011年) |
その他の職歴 | |
朝鮮労働党中央委員会委員 (1970年11月 - 不明) | |
朝鮮労働党中央軍事委員会委員 (1991年5月 - 不明) | |
人民武力部副部長 (1977年7月 - 不明) | |
朝鮮労働党中央委員会民間防衛部部長 (1991年5月 - 2005年) |
金益鉉 | |
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各種表記 | |
チョソングル: | 김익현 |
漢字: | 金益鉉 |
発音: | キム・イクヒョン |
経歴
編集1922年に日本統治下の黄海道(現黄海北道)で生まれた[1]。その後東北抗日聯軍に入隊し、金日成が率いる部隊で1945年まで抗日活動を行った[2]。、日本による統治が終了すると、1945年11月に北朝鮮共產主義青年同盟委員長に就任した[1]。その後金日成高級党学校を卒業し[1]、1951年に朝鮮人民軍第2師団第1連隊長に就き朝鮮戦争を迎えた[2]。1968年に朝鮮労働党中央委員会軍事部長[1]、1970年に党中央委員会委員に選出された[1]。1972年に中将に昇進し[1]、第4軍団長に就いた[1]。同年12月に最高人民会議第5期代議員に選出された[1]。1975年に副総参謀長を経て[1]、1977年に上将に昇進し人民武力部副部長に就任した[1]。
1991年5月に朝鮮労働党中央軍事委員会委員[1]、朝鮮労働党民間防衛部部長に選出され[1]、同年11月に大将に昇進した[1]。1992年に共和国英雄称号を授与され[1]、1994年に次帥に昇進した[1]。2003年に名誉職である最高司令部検閲官に就き[2]、2005年に党民間防衛部部長職を解任された[1]。同年9月に中国で開催された戦勝60周年記念行事に「抗日革命闘士代表団」団長として参加し、胡錦濤国家主席と会談した[2]。
脚注
編集- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q 김익현(金益鉉)북한지역정보넷
- ^ a b c d e f g 北 `항일빨치산' 출신 김익현 차수 사망(종합)송고시간 聯合ニュース 2009年1月16日
- ^ “김익현 (金益賢)KIM Ik Hyon” (朝鮮語). 連合ニュース. 2022年9月7日閲覧。