金志川 豊見親(かねしがわ(きんすかー) とぅゆみゃ)は、15世紀末から16世紀初めの宮古島の豪族である、金盛、那喜太知の兄弟間で継承された称号。二人とも城辺町友利に住んだ。金志川とは、同地にある井戸の名(カー、ガーとは宮古方言で井戸の意)。仲立氏は金志川豊見親ナキタツの子孫を称している。

概要

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「仲宗根豊見親八重山入の時のあやご」に「金志川の豊見親金盛とよ/城なぎ弟なきたつとよ」と名前が載り、アカハチ征伐に兄弟で参加していた事が分かる。その後、鬼虎征伐にも参加[1]。その帰途、金志川豊見親金盛は多良間島で死ぬ。「宮古島旧記」は病死とする。多良間島の伝説によれば、仲宗根豊見親が金志川豊見親の名声を忌み、これを粛清したとする。海上で一度失敗したため、多良間島に船を寄せ、土原豊見親に依頼して、彼の家で酒を飲ませて殺害したという[2]

跡を継いだナキタツも高名な首領となった。「宮古島旧記」によれば、目黒盛豊見親[3]の再来との評判があった。1513年、中山へ行った帰りに大般若経六百巻を購入した事が「球陽(176号)」に載る。さて、仲宗根豊見親の死後、嫡男金盛が宮古之頭職を継いでいた[4]が、彼は令名高いナキタツを危険視し、ついに嘉靖の初頃、野張岳上に宴席を設け、伏兵を配置した上で那喜太知をここに招き、殺害した。しかし中山は禁武政策をとっていたので、直ちに金盛問罪の使者を派遣した。金盛はこれを聞き自刃した[5]。これ以後、豊見親号は廃れ、宮古頭職も廃止された。中山は仲宗根豊見親の末子玄屯を平良頭職に任じ、暫くして下地頭も設置して、これでもって島内の政治に当たらせた。


ただし、玄屯(童名馬之子)の平良頭職就任は、「忠導氏家譜正統」には「嘉靖元年」とあり(ちなみに始めて、ともある)、嘉靖の初頃にナキタツが殺されたという「宮古島旧記」の記述と、時系列が一致しづらい。この辺りの整合性は不明である。

脚注

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  1. ^ 「忠導氏家譜」には「宗徒の勇士」として、仲宗根豊見親の子息三人と並び、金志川兄弟の名前が載る。
  2. ^ 稲村pp.233
  3. ^ 仲宗根豊見親の五代前の先祖で、伝説化された偉大な首領である。宮古島旧記は、彼の出世物語に多くの紙幅を割いている。それによると、豊見親号の始めもこの人という。
  4. ^ 「球陽(162号)」による。忠導氏家譜正統では、金盛の家督は認められておらず、祭金と玄屯だけが二世とされている。ちなみに三男チリマラは別に宮金氏を興した。
  5. ^ 稲村pp.236。「庶民史」によるが、「宮古島旧記」にある通りの話である。ただ「球陽(162号)」は「金盛が法を犯していると聞き、他の罪も鞠訊せんとして使いを出したが、着く前に病死した」とだけ述べる

参考文献

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  • 稲村賢敷「宮古島庶民史」三一書房、1972年
  • 稲村賢敷「宮古島旧記並史歌集解」至言社、1977年
  • 平良市編纂委員会「平良市史・資料編1」平良市、1981年。pp.80「忠導氏家譜正統」
  • 球陽研究会編「球陽」角川書店、1974年
  • 沖縄大百科事典、沖縄タイムス、1983年

関連項目

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