金山藩
金山藩(かねやまはん)は、関ヶ原の戦い後の短期間、美濃国可児郡の金山城(現在の岐阜県可児市。旧兼山町[注釈 1])を預かった松平忠頼の領国を「藩」と捉えた呼称[注釈 2]。翌1601年に忠頼は遠江浜松藩に移されており、「藩」は1年足らずで消滅している。
歴史
編集前史
編集中世末期(戦国期)の金山には木曽川の河港(金山湊)が置かれ、木曽川上流の要地として発展した[5][注釈 4]。永禄8年(1565年)以後、織田信長の重臣・森可成が金山城主となり[5]、以後森家が3代35年間にわたって当地を治めた。2代目の森長可は金山の城下町建設などに尽力し、豊臣秀吉政権下の大名として存続した。天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いで長可が戦死すると、弟の森忠政が家督を継いだ。
関ヶ原の役を前にした慶長5年(1600年)2月1日、徳川家康の宛行状により、忠政は北信濃川中島4郡の領主となり、海津城(のちの松代城)に入った[7][注釈 5]。これは豊臣秀吉死後、大名の領知異動はかならず五大老連署の宛行状によるという誓紙を無視した措置であり[7]、北信濃から豊臣家の蔵入地を一掃して徳川家への備えを破る意図があったという解釈がある[7]。その後、金山は犬山城主石川貞清(石川光吉)の所領となったが[6]、貞清は西軍に属して犬山城で抗戦した上に関ヶ原本戦でも戦い、戦後に改易された。
松平忠頼の入城
編集関ヶ原の戦いののち、桜井松平家の松平忠頼(武蔵松山藩1万石[注釈 6])は、犬山城の城番を務めるとともに、家康からの命を受けて金山城にも在番した[8]。この際、「金山領」1万5000石が忠頼に与えられた[8]。これを金山藩の立藩と捉える見方がある。忠頼は慶長6年(1601年)4月(『寛政譜』によれば2月[8])に遠江国浜松藩へ移された[注釈 7]。
後史
編集金山城は慶長6年(1601年)頃、犬山城主となった小笠原吉次(清洲藩主松平忠吉御附家老)によって破却された[1][6]。地域は幕府の代官支配となり、元和元年(1615年)からは尾張藩領となった[1][2]。
歴代藩主
編集松平(桜井)家
編集譜代。2万5000石。
- 松平忠頼(ただより)
脚注
編集注釈
編集- ^ 「金山」が「兼山」と改められたのは明暦2年(1656年)[1][2]。
- ^ 『藩史大事典』では「金山藩」として立項されており[3]、『角川新版日本史辞典』「近世大名配置表」にも藩名「金山」として掲載されている[4]。
- ^ 赤丸は本文内で藩領として言及する土地。青丸はそれ以外。
- ^ 江戸時代、尾張藩領の兼山には河港が置かれて栄えた[6][2]。河港は寛政年間には衰え[2]、木曽川舟運の中心は上流の黒瀬湊(現在の加茂郡八百津町八百津)に移ったが[5]、兼山は酒造業などさまざまな業種の栄える町として繁栄した[2]。
- ^ この際、海津城主田丸直昌が美濃岩村に、飯山城主関一政が美濃多良に、それぞれ移封された。
- ^ 『寛政譜』には異説として、先代の松平家広(慶長6年(1601年)6月没)の生前に忠頼が家督を譲られていないという説も参考として収録されている[8]。
- ^ 『寛政譜』では武蔵松山から浜松への移転と記している[8]。『角川地名大辞典』の武蔵松山藩の項目では、1万石で入城した忠頼が浜松に移転して廃藩とあり[9]、浜松藩の項目では、忠頼の前封地を「武蔵松山2万5000石」(武蔵松山の本領1万石+金山領1万5000石)としている[10]。『浜松市史』の「歴代浜松城主一覧表」では、忠頼が浜松に移される前の封地を「美濃金山」とする[11]。
出典
編集- ^ a b c “美濃金山城跡”. 文化遺産オンライン. 2021年11月25日閲覧。
- ^ a b c d e “金山村(近世)”. 角川地名大辞典. 2023年6月14日閲覧。
- ^ “藩史大事典 第4巻 中部編Ⅱ 東海【新装版】 目次”. 雄山閣. 2021年11月25日閲覧。
- ^ 『角川新版日本史辞典』, p. 1311.
- ^ a b c “金山(中世)”. 角川地名大辞典. 2023年6月14日閲覧。
- ^ a b c “美濃金山城跡の発掘調査について”. 可児市. 2021年11月25日閲覧。
- ^ a b c “森忠政の北信濃入り”. 長野市誌 第三巻 歴史編 近世1. 2024年12月10日閲覧。
- ^ a b c d e 『寛政重修諸家譜』巻第五、国民図書版『寛政重修諸家譜 第一輯』p.27。
- ^ “松山藩(近世)”. 角川地名大辞典. 2023年6月14日閲覧。
- ^ “浜松藩(近世)”. 角川地名大辞典. 2023年6月14日閲覧。
- ^ “浜松城と家康”. 浜松市史 ニ(ADEAC所収). 2021年11月25日閲覧。
参考文献
編集- 『角川新版日本史辞典』角川学芸出版、1996年。