金子尚一
金子 尚一(かねこ ひさかず、1900年 - 1997年[1])は、日本の英米文学者、教育者、立教大学名誉教授[2]、立教大学文学部教授・予科教授・学生部長[3][4]。立教大学オーケストラ部長を務めたほか[2]、立教大学英語会(ESS)の支援も行うなど、学生らの活動にも深く携わった[5]。
人物・経歴
編集立教大学文学部英文学科在学中から優秀で、1925年に卒業後、直ぐに立教大学文学部助教授に就任し、アメリカに留学してケニオン大学で文学修士(MA)を取得[3][4]。
1929年に立教大学予科教授に就任し[3]、その後文学部教授も兼任し、予科では英作文と英訳を、文学部では英文学を講じた[4]。
1944年4月、立教大学学生部副部長、1945年4月には立教大学学生部長を務める[3]。
1945年10月24日にGHQにより教職追放処分となるが、翌月の11月には連合軍総司令部顧問に就任する。そこでの具体的な職務内容は不明だが、1949年11月から連合軍総司令部外交局にも勤務しており、追放後もGHQは金子を重用していたことが分かっている[3]。
1952年、追放処分が解除され、1953年4月に立教大学文学部講師として立教に復帰し、同年10月に再び立教大学文学部教授となり、1966年3月に定年で退職した[3]。
立教大学在職中には、立教大学英語会(ESS)の運営に関わり、同会の卒業生で組織される立英会の初代会長を務めた。金子が亡くなった後、夫人の金子寿子が遺志を継いで、ESSの学生のために多額の寄付を行い、それを基にして金子基金が創設された。寿子夫人が他界後にも、遺言により遺産の一部が遺贈されている[5]。また、立教大学英語会(ESS)が主催する大会の一つとしてウィリアムス杯などとともに、金子杯が設けられている[6]。
金子は立教大学オーケストラ部長も務め、当時学生部長を務めていた岩井祐彦(大学チャプレン)を始め、竹田鐵三(元大学チャプレン)、辻荘一(グリークラブ部長、名誉教授)らとともに、立教大学メサイア演奏会の開催実現のために活動を行った。記念すべき第1回目の立教大学メサイア演奏会は1962年12月22日、文京公会堂(現・文京シビックホール)にて開催された[2]。