金井高勝
(金井隆勝から転送)
金井 高勝(かない たかかつ)は、戦国時代の武将・真田幸綱(幸隆)の五男。名ははじめ「信春」か。通称は宮内介。兄に信綱、昌輝、昌幸、信尹。信尹を5男、高勝を4男とする説もある。また、真田清鏡が兄弟にいるという説もある。生母は恭雲院。
時代 | 戦国時代 - 江戸時代前期 |
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生誕 | 不詳[1] |
死没 | 慶長11年7月7日(1606年8月10日) |
改名 | 信春(初名) |
戒名 | 高勝寺殿龍顔宗白大居士[2] |
墓所 | 長野県上田市の龍顔寺[2] |
官位 | 宮内介 |
氏族 | 真田氏→金井氏 |
父母 | 父:真田幸綱、母:恭雲院[3] |
兄弟 | 真田信綱、真田昌輝、真田昌幸、真田信尹、金井高勝、真田清鏡? |
生涯
編集最初は真田の家名を名乗るが、のち金井氏を称し、高勝(隆勝とも)と名を改めたらしいが、詳細は不明。『金井氏系図』や『一徳斎殿御事事蹟稿』では高勝が金井氏を継承したとしている[2]。
信濃小県郡丸子村(長野県上田市)の御嶽堂に居住し、のちに子孫は帰農した[2]。墓所は同所の龍顔寺(以前は「高勝寺」と呼ばれていた)といい、高勝の菩提所として創建された[2]。
高勝の没した翌年の6月26日付で、甥の信之が叔父の冥福を祈って寺領3貫文を寄進したという記録が寺に残っている(『龍顔寺文書』)[2]。
ただし、江戸時代の江戸幕府編纂の系図集成である『寛政重修諸家譜』では幸隆の四男は信尹とし、五男の高勝の名は見られない[4]。
脚注
編集参考文献
編集- 書籍
- 柴辻俊六『真田昌幸』吉川弘文館〈人物叢書〉、1996年。ISBN 978-4-64-205202-3。
- 丸島和洋『真田一族と家臣団のすべて』KADOKAWA〈新人物文庫〉、2016年。ISBN 978-4-04-601099-5。
- 史料
- 『寛政重修諸家譜』
- 『金井氏系図』
- 『一徳斎殿御事事蹟稿』
- 『龍顔寺文書』