野沢式X-1
野沢式X-1(のざわしきX-1)は、日本の野沢航空研究所が設計し、野沢工作所が製作した軽飛行機。「野沢式X-1」の他[1]、単に「X-1」とも呼ばれる[2][3]。
概要
編集1940年(昭和15年)[2][4]10月[4]、野沢組の子会社である[3]野沢航空研究所は[2][3][4]、土橋三郎技師を主務者として、練習機とスポーツ機を兼ねる[3][4]野沢式X-1の設計に着手した[2][3][4]。機体の製作は同じく野沢組の子会社である[3]野沢工作所が担当し、1941年(昭和16年)11月に試作機[3][4]1機を完成させた[4]。試作機には登録記号「J-BBGD」が与えられ、1941年12月7日の太平洋戦争勃発の直後に、古河地方航空機乗員養成所にて試験飛行を実施。その後は古河地方乗員養成所にて航空局によって使用され、練習機やグライダーの曳航機の任をこなしている[5]。日本の戦時体制への突入に加え[3][4]、設計にも問題点が存在したため量産化は見送られた[4]。
機体は、開発当時の最高水準の性能を目指し、最新技術が投入された[4]複座[2][3][5]単発の低翼機であり[2][5]、胴体は木製で半モノコック構造を採用[6]。主翼は片持式の逆ガル翼で[2][3][4]、当時としては先進的なフラップも備える[4]。主翼の骨組は木製で、合板張りと羽布張りが併用されている[6][注 1]。エンジンはポブジョイ「R」を搭載しているが、このエンジン選択が機体に問題を生じさせており、生産性の悪さと併せて量産中止の原因となった。降着装置は覆いを備えた固定脚[5]。