野口喜一
野口 喜一(のぐち きいち、1895年(明治28年)4月16日[1] - 1957年(昭和32年)4月2日[1][2])は、昭和時代の政治家。実業家。地主[3]。衆議院議員。
経歴
編集神奈川県橘樹郡川崎町南河原(川崎市幸区南河原を経て現幸区駅前本町)の素封家の家に生まれる[1]。1922年(大正11年)3月、明治大学法科を卒業[1]。1924年(大正13年)市制施行直後の川崎市の学務委員に推され、1926年(大正15年)市青年団御幸分会長、1928年(昭和3年)県社会委員となった[1]。
同年9月、川崎市会議員に当選[1]。参事会員となった[1]。さらに1932年(昭和7年)6月より神奈川県会議員に2期当選し、参事会員にも選ばれた[1]。
1937年(昭和12年)4月の第20回衆議院議員総選挙では神奈川県第1区から出馬し当選[2]。つづく第21回総選挙でも当選し、衆議院議員を2期務めた[2]。幣原内閣では陸軍参与官、陸軍省廃止後は第一復員参与官を歴任し、派遣軍慰問のため北満州へ派遣された[2]。
衆議院議員引退後は、川崎鶴見臨港バス常任監査役、自民党川崎支部顧問などを歴任した[1]。ほか、東京綿油再生、特殊鋳工、東神商事各取締役社長、川崎乗合自動車監査役、直喜鉄工所、大東鉄工所、川崎食品市場各取締役を務めた[2]。
墓所は川崎市幸区宝蔵院延命寺[1]。
脚注
編集参考文献
編集- 横浜貿易新報社 編『神奈川県名鑑』横浜貿易新報社、1935年 。
- 衆議院、参議院 編『議会制度七十年史 第11』大蔵省印刷局、1962年 。
- 神奈川県県民部県史編集室 編『神奈川県史 別編1 人物』神奈川県、1983年。