里見公園

千葉県市川市にある地区公園
里見八景園から転送)

里見公園(さとみこうえん)は千葉県市川市国府台にある市川市立の都市公園(地区公園)[1]。春の花見の名所として知られる。面積8.2ha。江戸川の流れを見下ろす高台にあるため、江戸川、東京東部の市街、富士山等山々の眺望に優れている。15世紀に、この地に太田道灌が仮陣を置き、弟の太田資忠らが国府台城を築いた。その後16世紀に里見氏後北条氏の間で2度にわたる国府台合戦が戦われた。

里見公園
里見公園の花壇
分類 都市公園(地区公園)
所在地
千葉県市川市国府台3-9
北緯35度44分51.6秒 東経139度53分54.9秒 / 北緯35.747667度 東経139.898583度 / 35.747667; 139.898583
面積 8.4ha
運営者 市川市
設備・遊具 噴水花壇など
駐車場 約40台
アクセス バスで「国立病院」下車徒歩3分
公式サイト 市川市HP
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歌川広重『名所江戸百景』から「鴻の台利根川風景」(※この「利根川」は江戸川の旧称)。崖の高さに誇張があるが、里見公園付近を描いたものとされる。

公園の概要

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公園の北半分は自然を残した樹林で、石棺の露出した前方後円墳明戸古墳、国府台合戦の伝説を伝える夜泣き石(公園に隣接する總寧寺から移設)、北原白秋の旧居紫烟草舎江戸川区から移築)等が残っている。

公園の南半分は西洋式庭園で、桜が多く、近年はバラの育成にも力を入れている。また、江戸川に近い斜面林の中に、弘法大師(空海)発見と伝えられる湧き水の羅漢の井が残っている。また、園内には市内最高標高地点も存在する。

自然が残されているため、春秋は小学校や幼稚園の遠足の地として親しまれている。

近くの江戸川堤、矢切の渡しと結んで散策コースとして歩かれることが多い。さらに、市川市では、京成線国府台駅・江戸川堤・里見公園・国府台緑地・じゅん菜池緑地・小塚山緑地・堀之内貝塚公園・北総線北国分駅をつなぐ道を、散策路「市川水と緑の回廊」として整備している。

公園の沿革

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明治時代、檀家を持たない総寧寺は困窮し、境内の一部を公園として開放した)[2]

公園の南半分の西洋庭園部分には、旧陸軍の病院(陸軍衛戍〈えいじゅ〉病院)があり、戦後も国立国府台病院(現・国立国際医療センター国府台病院)の精神科病棟として使用されていた。

公園の北半分の樹林の中には、1933年(昭和8年)まで里見八景園という遊園地があり、今も園内にはその庭園の名残が残されている。その後は私設の「里見公園」となったが、戦争の激化に伴い、旧陸軍の管理するところとなり、太平洋戦争中はこの樹林の中にいくつもの防空壕が掘られた。

戦前には、江戸川西岸の東京都側を含めた遊園地開発計画があり、里見城跡に鉄塔を立て、江戸川越えにケーブルカーを設置するなどの遊園地計画がすすめられたが、戦争で中止となった[3]

1958年(昭和33年)、市川市立の公園となり、南半分の国府台病院の病棟が移転した跡は西洋式庭園となり、北半分の樹林の中の防空壕も埋められ、今日のように整備された。

明治時代から大正時代にかけての国府台公園(一名・里見公園)

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明治時代、公園が開設された年月は特定できないが、随筆家・大町桂月が1908(明治41)年に刊行した『筆』に所収された「国府台」によれば、「四年前に開かれて、公園となりたる也」[4]とある[5]。明治38年5月に発行された『むさしの』5巻2号掲載の「国府台修学旅行記」(東京高等女学校・愛子著)には、「明治三十七年十一月二日は兼て定められたる修学旅行の日なり、」「国府台公園につきしは午前十時なりき、」(P76)[6]。と記載されている。これらから、1904年(明治37年)11月には開設されていたこと、名称は「国府台公園」と呼ばれていたことが判明する。

呼称については、大正3年刊行の落合浪雄著『郊外探勝その日帰り 増訂』有文堂書店などには、「国府台 今はそこら一面を切り開いて里見公園と云ふて居る、」[7]とあり、「里見公園」の呼称も用いられていたことが分かる。

大正12年に刊行された『千葉縣東葛飾郡誌』の「公園」の項に(P1255)、「国府台公園 一名里見公園、市川町、総寧寺境内其江戸川に臨み風光絶佳の処是を国府台公園となす」[8]とあることから、正式名称を「国府台公園」、通称を「里見公園」と呼ばれていたと考えられる[9]

里見八景園

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大正末期から昭和初期にかけて存在した遊園地で、教導団病院の移転により造成され、廃止後は再び陸軍病院の分室が作られた[10]。創設者は、東京でトタンブリキを扱う問屋を営んでいた蓜島家と、メッキ加工業を営んでいた佐々木家で、「東洋一の遊園地」を目指して1918(大正7)年頃から構想を練り始め、1920年代初期に開園し、1933年ころまで続いた[11]。園内には、大丸太渡しや大滑り台、プール、動物小屋、音楽堂、演芸舞台、料理旅館「鴻月」、茶屋等が設けられ、創業と同時に千本の桜が植樹され、春には花見客で賑わった[11]。東京方面から直接来られるように江戸川の対岸の小岩地域と「鴻月」前の船着き場を行き来する「栗市の渡し」も設けられ、希望すれば柴又帝釈天まで送迎するサービスもあった[11]。佐々木家は中の茶屋と演芸場などを経営し、蓜島家は「鴻月」と「栗市の渡し」のほか、さつき園と、土橋亭、大観亭、富士見亭という茶屋と桟敷を経営した[11]。「鴻月」は市川三業組合(花街)に属していた関係から、1986年には蓜島正次(創業者の子で東京ベイ信用金庫会長、市川市名誉市民)らの呼びかけにより、市川真間の浮嶋弁財天に「名妓之碑」が建立された[12][13]

その他

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  • 一部に、園内に高射砲陣地があったとの説が流布しているが、誤りである。これは、以前、明戸古墳西(現お花見広場)にすり鉢状の大きな竪穴が2つあり、近所の子供たちが高射砲を据えた跡だといったのが始まりである。この竪穴は防空壕の跡であることが明らかになっている。陣地の存在について、市川市立歴史博物館でも、この確たる根拠はないとの見方をとっている。
  • 園内北の樹林は、月光仮面(KRテレビ〈後のTBS〉)、失楽園(よみうりテレビ)など、テレビドラマ等の撮影に使われたことも多い。(国府台参照)

交通

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  • 京成本線 国府台駅から江戸川堤を歩いて15分 同駅から京成バス松戸行きで国立病院前下車徒歩5分
  • JR総武線 市川駅から京成バス松戸行きで国立病院前下車徒歩5分

脚注

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  1. ^ 市川の都市計画 資料編
  2. ^ 市川里見公園新聞 第68号 2010年10月
  3. ^ “里見公園を5万坪に 江戸川あたりも含め開発計画/市川”. 読売新聞千葉版: p. 8. (1957年2月16日) 
  4. ^ 大町桂月 著『筆』,広文堂,明41.4. 国立国会図書館デジタルコレクションNDLJP:889243/33
  5. ^ 市川市史 歴史編4, 市川市, 2020.3
  6. ^ 『むさしの』5(2),古今文学会,1905-05. 国立国会図書館デジタルコレクション NDLJP:1524890/44
  7. ^ 落合浪雄 著『郊外探勝その日帰り』,有文堂書店,大正3. 国立国会図書館デジタルコレクション NDLJP:936569/18
  8. ^ 千葉県教育会 編. 千葉県東葛飾郡誌, 東葛飾郡教育会, 大正12
  9. ^ 明治時代から大正時代の国府台公園(里見公園) 根岸英之
  10. ^ 里見八景園のチラシ広告里見公園新聞 第6号 2007年6月24日
  11. ^ a b c d 遊園地事業里見公園新聞 第74号 2011年11月30日
  12. ^ 市川の歴史『市川細見記』千葉商科大学政策情報学部、2015年10月17日
  13. ^ 蓜島正次氏が死去 地域の発展に貢献市川市名誉市民市川よみうりonline、2012年10月6日

関連項目

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外部リンク

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