郯
西周・春秋時代の諸侯国
不明 - 紀元前414年 | |
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国姓 | 己姓 |
爵位 | 子 |
国都 | 郯城 |
滅亡原因 | 越により滅亡 |
史書の記載 | 『春秋左氏伝』(始見は宣公四年) |
周朝諸侯国一覧 |
歴史
編集関連する記録
編集- 郯の国君の爵位は子爵、姓氏は己姓。
- 郯の首都は郯城で「碌碡城」としても知られている。当時の君主郯子が外侵への防御のために、城壁を修理するとき、巫術の信仰により、何千もの数の碌碡(らくごく、田畑の土をならすのに用いる)を埋められたことから、郯城の別名となった。
- 郯の祖先は東夷の少昊。
- 郯は小国で、歴史的な記録がないため、その境界を確認することはできない。しかし、郯は強国であった。北は瑯琊、南は江辺、東は黄海、西は徐州に接していたと言われる。
- 春秋時代、郯の周辺国家の領域は:
- 郯の首都の遺跡は郯城県の北にあり、敷地の東壁と南壁は平地となり、西と北の壁は部分的に保存されている。壁の底面の幅は40メートル、上部の幅は15メートル、残りの壁の高さは4メートル。周長は4670メートルで、そのうち西と北の壁は1260メートル、東の壁は1370メートル、南の壁は780メートル。
- 郯子が植えた古代のイチョウの木は、樹齢3000年で生きており、高さは41.9メートル、胸囲は8メートル、直径は2.6メートル、樹冠根系の面積は56畝。現在の繁栄している(画像→[1])。
- 孔子はかつて弟子たちを連れて郯に行き郯子に会い、虚心に教えを求めた。これが孔子師郯子の由来である。
- 紀元前341年の斉と魏の馬陵の戦いは郯城の附近で発生した。