郭源治

台湾の元プロ野球選手

郭 源治(クォ・ユェンツ、かく げんじ、1956年10月5日 - )は、台湾中華民国)の台東県台東市出身の元プロ野球選手投手)。右投右打。台湾原住民族アミ族で、1989年9月に日本帰化。2024年現在の本名佳久 源治(読み同じ)[1]

郭 源治(佳久 源治)
Genji Kaku
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 中華民国の旗 中華民国 台湾省台東県台東市
生年月日 (1956-10-05) 1956年10月5日(68歳)
身長
体重
178 cm
78 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 投手
プロ入り 1981年
初出場 NPB / 1981年8月30日
CPBL / 1997年4月13日
最終出場 NPB / 1996年8月29日
CPBL / 1999年10月11日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
殿堂表彰者
選出年 2019年
選出方法 競技者表彰
郭 源治
各種表記
台湾語 郭 源治
和名表記: かく げんじ
発音転記: クォ・ユェンツ
英語名 Kuo Yuen-chih
テンプレートを表示

経歴

編集

アマチュア時代

編集

アミ族の父・クムン(郭文志)と母・ブタル(林愛妹)の7人兄弟の3男として生まれる[2]。勇敢になってほしいという願いからアミ語を意味するブァフィーと名付けられた[3][4]。農業を営む生家は貧しく、で編まれた約6の小屋に親子9人で暮らしていた[3]。弟妹の子守や畑仕事の手伝いのかたわら、草を巻いて作ったボールで野球を始めた[3]1969年、豊年小学校6年生の時に台東県大会で優勝し、リトルリーグの台湾代表チーム・金龍隊のメンバーに選ばれた[3]。郭は3番打者を任され、中堅手兼2番手投手として活躍し、東京の極東大会を制して臨んだアメリカ合衆国ペンシルベニア州ウィリアムズポートで行われたリトルリーグ・ワールドシリーズでも優勝した[3]

帰路も日本に寄って後楽園球場でNPBの試合を観戦し、試合前の約束通りに王貞治本塁打を打って感銘を受けたという[5]。金龍隊のチームメートは宋美齢の申し出により全員が私立の華興中学校に学費免除で入学し、台北市内の寮に入った[6]。試験に落第したら退学という事もあって勉強を熱心に行ない、系列の華興高校に進んでいる[7]。同校ではエースとして後輩の李宗源劉秋農とともに投手陣を形成し、チームは無敵とまで評されている[3]。学費の問題などから大学進学は諦めていたが、報道を通じてそれを知った宋美齢の助けを受け、宋が理事長を務める輔仁大学へ入学した[7]

大学では幼児の体力づくりなどを研究し、卒業後は兵役により台湾の陸軍(中華民国陸軍)に入隊した[7]。兵役中は特殊部隊にも配属され、軍用機からの夜間降下訓練も行なっている[8]。兵役中の1981年1月に社会人野球の選手を主体にした日本代表との対戦で完封勝利を収め[9]、日本からオファーが届くようになる。最初にオファーをしたのはロッテオリオンズで、李宗源とともに入団することが決まりかけたが[2]、郭曰く「一番、熱心に誘ってくれたから、そこがいいかな」[2]と思ったという中日ドラゴンズと3月に仮契約を結び入団が決まった[10]。契約金と年俸はそれぞれ1,250万円と最低保証額の240万円(いずれも推定)で、3,000万円以上の契約金を提示してきたNPBの球団もあったが、最初に高く評価してきた中日を信頼して入団を決めた[4]

日本プロ野球時代

編集

兵役終了後の7月に来日し[9][1]、初登板となった8月30日の対大洋戦では151km/hの速球を投げるなど、途中でふくらはぎが痙攣しながらも先発で勝利を挙げている[11]。同年はこの1勝のみに終わったものの、投球には自信を持てたという[12]。一方で言葉が通じないためストレスがたまり、特に台湾よりはるかに複雑なサインプレーの説明を聞き取れずそのたびに罰金を取られ[2]、マウンドでも打者に集中できずノイローゼになりかけた[13]。日本の食事も口に合わず(中華料理は日本人好みの味付けになっていて食欲を刺激しなかった)、当初は生野菜揚げ物焼肉ぐらいしか食べられなかった。郭によると、時には合宿所の厨房を借り受けて自ら炒飯を作ったりもしたという[14]。その後数年間かけて、日本食を全て克服した。

1982年は開幕から先発ローテーションに入り6月までに5勝を挙げるなど津田恒美新人王を争う活躍を見せ[15]、初のオールスターゲームにも出場した。同年は都裕次郎に次ぐ先発の柱として[16]9勝を挙げ、チームのリーグ優勝に貢献した。9月15日の対巨人戦では、初回ランナー1,2塁の場面で篠塚和典犠打を悪送球。左翼手大島康徳の拙守もあり、打者篠塚が生還するという珍プレーに繋がった(記録は犠打と3失策)。

日本シリーズではリリーフとして第1戦で初登板を果たしたが、大田卓司にソロ本塁打を打たれている[17]。同年初夏に後の夫人と知り合い、精神的に支えられたという[18]

1984年からは左打者対策にシンカーを投げるようになり[19]、同年はシーズン終盤まで遠藤一彦鈴木孝政最多勝利のタイトルを争い[20]、13勝を挙げている。

1985年は先発、抑えとしてリーグ最多の230回1/3を投げた点が評価され、1,000万円増の年俸4,000万円(推定)で契約を更改している[21]1986年開幕投手を任され、4年連続の2ケタ勝利となる11勝を挙げた。契約更改では300万円増の年俸4,300万円(推定)となった[22]

1987年、抑え投手の牛島和彦落合博満との世紀のトレードで前年オフにロッテへ移籍したというチーム事情があり、新監督の星野仙一は郭をストッパーに指名した。評論家からは精神面での不安を指摘されたが、先発投手が完投したり大差でリードしているケースを除いて勝ちゲームの締めくくりを必ず任せる星野の信頼に応え、最優秀救援投手を獲得する活躍を見せた[23]。また、防御率1.56、被打率.190と投球内容も安定していた[24]。オフには1,800万円増の年俸6,000万円(推定)で契約を更改している[25]。なお、同年獲得したファイアマン賞の賞金100万円は中継ぎの宮下昌己にプレゼントした[26]

1988年1月16日に結婚式を挙げた[25]。しかし、同年のシーズン開幕後は4月11日の対ヤクルト戦でテリー・ハーパーに決勝本塁打を打たれるなど、微妙なコントロールのズレに苦しんで5月までに4敗を喫する[27]。しかし投げ込みなどを重ねて不振を脱し[27]、6月には1勝8セーブ、防御率0.00の活躍で初の月間MVPを獲得している[28]。一方、7月21日に弟が交通事故にあい、オールスターゲーム第2、3戦の出場を辞退して見舞ったが同28日に亡くなっている[23]。後半戦の開幕戦となった翌日、完投ペースの小松辰雄を替えてあえて登板させた星野から「源治、空を見てみろ、弟が見ているぞ」と声をかけられて奮起し、涙を流しながら後続をパーフェクトに抑え、翌日以降もリリーフエースとしてチームを支えた[23]。リーグ優勝のかかった10月7日の対ヤクルト戦では最後に秦真司から三振を奪い、胴上げ投手となった[29]。同年は7勝37セーブの44セーブポイントを挙げ、石本貴昭山本和行の従来のシーズン記録・40SPを更新した[30]

西武ライオンズとの日本シリーズでは第2戦で同点の7回表から登板し、走者を出さずに3イニングを抑えて勝利投手となった[31]。第5戦では直前に登板した小松が不調で予定を早めて7回から登板したが、9回に石毛宏典に同点ソロ本塁打を打たれ、延長11回に決勝点を奪われて敗戦投手となっている[32]。このシリーズでは優秀選手に選ばれた[32]。オフには240票中227票の1位票を集めてセ・リーグMVPに選出された[33]。契約更改では年俸9,300万円+タイトル料1,000万円(推定)となっている[34]

1989年はキャンプ中に上半身と下半身のバランスが崩れ[35]、シーズンに入ると左太ももを痛めて、4月28日の対巨人戦ではマウンドで投球練習をした直後に打者に投げず降板するという珍しい事態になっている。6月に復帰後、7月7日から8月11日にかけ、当時のセ・リーグ記録となる12試合連続セーブポイントを達成した[36]。前年12月に法務局に申請していた日本への帰化が9月5日に認められ[37]、「郭」と発音の同じ「佳久」に改姓した(登録名は郭源治のまま)。契約更改では初のダウンとなる300万円減の年俸9,000万円(推定)となっている[38]

1990年は左腹斜筋挫傷のため4月11日に一軍登録を抹消された[39]。さらに二軍で調整中に左太ももを痛め、一軍復帰は6月8日になっている[40]与田剛がストッパーとして活躍した事もあり、復帰後は先発に再転向する。

1991年は開幕から本格的に先発に転向予定だったが前年ストッパーだった与田が離脱した関係で5月までリリーフを務めていたが、新人の森田幸一がストッパーになり先発に復帰。6月に2完封を含む5勝0敗、防御率1.58の成績で2度目の月間MVPを受賞した[41]。その後も先発を続け、13勝を挙げ、2,400万円増の年俸1億円(推定)で契約を更改している[42]

1992年は6年ぶりに開幕投手を務めたが、開幕戦で脹脛に痙攣を起こして4回で途中降板した[43]。その後も右前腕部を2度痛め、7月初めには左太もも痛など3度の登録抹消があり、初勝利を挙げたのは7月29日となった[44]。同年は4勝に終わり、1,500万円減の年俸8,500万円(推定)で契約を更改している[45]

1993年、前年不振に終わり進退をかけ挑んだこのシーズン、初登板となる開幕4戦目の対読売ジャイアンツ1回戦では見事完封勝利を挙げ、4月27日の対阪神戦では8回まで無安打で、9回無死で久慈照嘉に安打を打たれてノーヒットノーランを逃すも、7連続を含む13奪三振で1安打完封勝利を挙げた[46]。このまま勢いに乗るかと思われたが、5月以降好不調の波が激しいのと勝運に見放され1勝6敗と負けが大幅に先行。シーズン後半から抑え不在のチーム事情もあり再び抑えに転向し17セーブを挙げ優勝争いに貢献した。オフの更改では3,000万円増の年俸1億2,000万円(推定)となっている[47]

1994年は5月から先発ローテーションに加わり、5月21日の対阪神戦でスッポ抜けた投球がロブ・ディアーの側頭部に当たり、同年制定された危険球のルール適用第1号となり退場している[48]。9月21日の対阪神戦でNPB史上5人目となる100勝100セーブを達成した。10.8決戦では救援での起用が予想されていた[49]が、登板はなかった[注 1]最優秀防御率のタイトルも獲得し契約交渉は越年となったが、阪神・淡路大震災に衝撃を受けて1995年1月17日に球団の提示していた年俸1億3,000万円(推定)でサインし、被災者に500万円を寄付している[51]

1995年は先発でもリリーフでも不振の成績に終わり、5,200万円減の年俸7,800万円(推定、出来高付き)で契約を更改した[52]

1996年、監督に再び星野仙一が復帰したが、チーム最年長の郭には一軍の居場所は無く初の一軍未勝利に終わる。良い状態のピッチングをできるうちに台湾でプレーして台湾球界に貢献したいと考え、同年をもって中日を退団した[3]。現役16年間の活躍をたたえ、セ・リーグから会長特別賞が送られている[53]。11月22日に中華職業棒球聯盟統一ライオンズと入団契約を結び[54]、年俸は日本時代の3分の1以下となっている[3]1997年3月18日のナゴヤドームこけら落しでもあるオープン戦(オリックス・ブルーウェーブ戦)が引退試合に選ばれ、先発してイチローを右飛に打ち取った[55]

台湾プロ野球時代

編集

1997年八百長事件時報イーグルスが解散し、リーグの現状に心を痛めたという[3]。同年は5勝に終わっている。

1998年和信ホエールズに移籍すると、先発11試合連続勝利の中華職業棒球聯盟記録を達成するなどシーズン14勝を挙げた。また控え捕手だった王光浩中国語版の才能を評価し、王は5番を任されシーズンで打率.300の成績を残している[3]。また、かつて中日で監督だった山内一弘が和信で打撃コーチを務めていた。同年オフに一度は引退会見を開いたが、チームの要請を受け、王や高建三中国語版の成長を見守るために翌年も現役を続行することになった[3]

1999年は42歳でチーム最年長だったが、地元紙からは「制球力ナンバーワンの老将」と高い評価を受けていた[56]。5月には一時戦列を離れた[56]最優秀防御率のタイトルを争う等活躍[57]し、9勝を挙げた。また、9月に行われたシドニーオリンピックアジア最終予選に台湾代表として参加し、決勝リーグの対韓国戦では先発して5回を2失点に抑えたが、延長戦の末に敗れた[58]。シーズン終了後、監督としてチームに残ることを要請されたが、家族と一緒に暮らすために断り、日本に戻った[59]。なお、921大地震が起きた際には4日後の9月25日にナゴヤドームの公式戦で大豊泰昭とともに被害者への支援を呼びかけている[60]

現役引退後

編集

少年野球の指導や野球解説者を務めながら将来の事を考え[59]2001年11月18日に名古屋市中区でレストラン「郭源治 台南担仔麺」を開店した[1]

2001年からはマスターズリーグの名古屋エイティデイザーズに参加している[61]。また、中日に在籍していたチェンの相談相手なども務めた[62]

2011年からは台湾の優秀な中学・高校生への指導をボランティアで行っている[1][63]

2013年3月15日をもって台南担仔麺を閉店し、同年4月より中華職業棒球大聯盟の初代首席顧問に就任[64][65]したが、翌2014年8月29日に辞任している[66]

2018年東北楽天ゴールデンイーグルス春季キャンプにおいて研修コーチを務める[67]

2019年、台湾の野球殿堂である台湾棒球名人堂中国語版に選出された[68]

選手としての特徴

編集

最速151km/hの速球、スライダーシンカーフォークボールなど多彩な変化球[69]を投げた。闘志を前面に出す気迫溢れる投球スタイルが持ち味で、マウンドで見せたガッツポーズは「郭ダンス」と称された[3][70][71]

抑えを務めていた時は、自責点だけでなく失点も少ないという特長があった[72]。郭の筋肉は柔らかく回復力に優れ、ストッパーとして理想的な肉体だったといわれている[26]。ストッパー時代は7回からの複数イニングを投げる事もしばしばで、44SPを挙げた1988年の投球回数は救援だけで111回にも達し、これは1998年にこの記録を更新した時の佐々木主浩の56回のほぼ2倍にあたる[3]

アスリートの中でも傑出したスタミナがあり、アマチュア時代は完投した翌日でも野手として試合に出場していた[69]。打撃や守備の能力も高く、中日の監督だった山内一弘近藤貞雄内野手としての起用を真剣に考えたという[69]。また、1988年5月13日の対巨人戦で槙原寛己からサヨナラ2ラン本塁打を放っている[73]

人物

編集

大学時代に自分の知識不足を感じ、遠征の新幹線では文学書や歴史、国際情勢などに関する本をいつも読んでいた[70]通訳のない状態で、片時も参考書を離さず懸命に勉強して2年で日本語をマスターし、日本の小説新聞も読んでいたという[3][13][70]。1988年の台湾遠征の際にはオフのイベント参加を嫌う落合博満も「郭のためなら」と遠征参加を快諾するなど、チームメートから深く信頼されていた[74]

貧しい環境の中で育ち、中日と契約後に来日し名古屋空港を訪れた際も、所持金は数千円で荷物も風呂敷包みひとつであった[75]。契約金の1250万円は半額を両親に譲り、台北に家族の為のマンションを購入すると瞬く間に無くなったという。後に西武ライオンズに入団した郭泰源の契約金が推定1億円(8000万円であったとも伝えられている[76])である事を聞きつけ、自分の評価の低さに愕然としたものの[注 2]、「自分が台湾アマ球界からの先駆者である」「頑張れば給料を上げてもらえる」と割り切り[75]、真摯な態度で練習を続け、遂には1億円プレイヤーへと上り詰めた。

日本への帰化については台湾への愛着などから非常に悩み、台湾では反対する意見も多かったという[74]。しかし、日本で暮らしていく子供の幸せを第一に考え[13]、さらに自分が外国人枠を外れることがチームの強化につながるため、星野仙一を日本一にしたいとの思いから帰化を決意した[74]。相談した父や宋美齢、友人らは決断を温かく尊重してくれたという[77]

1988年シーズンオフの11月15日に中華民国棒球協会の招待で中日が台湾に遠征を行った際、郭の半生を描いた映画『郭源治物語』が同地で公開されている[78]。2日間で2試合を台湾代表と行ない、郭は第1試合は中日側、第2試合では台湾側で出場した[78]。記者会見には地元のマスコミ100人以上が集まり、外交部による歓迎パーティーも開かれるなど高い関心を持たれた[78]

中日退団後の1997年に母国リーグの統一ライオンズに入団した際、「意識する事はない。台湾は産んでくれたお母さんであり、日本は育ててくれたお父さん。どちらも必要だし、どちらかを選ぶ事は出来ない。もしあなたは何人?と聞かれたら『野球人』と答えます」と、当時のインタビューに答えている[79]

背番号33は台湾代表永久欠番(ただし、後に許銘傑羅嘉仁が代表でこの番号を使用している)。

家族

編集

夫人は元フライトアテンダントで、1984年にはミス日本に選ばれている[80]

2男2女がおり、長男と次男は双子。長男の佳久耀も元野球選手で2013年に統一セブンイレブン・ライオンズに練習生として入団したが正式契約には至らず、2015年に社会人野球・矢場とんに入部[81]。現在は退団している。次男の佳久創明治大学ラグビー部出身で[82]、大学時代には日本選抜に選ばれた。その後トヨタ自動車ヴェルブリッツに所属したが、2015年に退団[83]。その後はアクロスエンタテインメントに所属し、俳優として活動している[84]。2019年9月6日放送の『爆報! THE フライデー』(TBS)においては、次男の創とテレビ初共演を果たした[82]

台湾移籍後、娘が誘拐未遂にあい、白暁燕の誘拐・殺人事件の直後だったことから家族を日本に帰して単身赴任を続けた[3]

1988年に交通事故で亡くなった弟とは将来台湾料理の店を開く約束をしており、弟は料理人として修行を始めていた[70]。引退後、弟との約束通り名古屋市で台湾料理店を営んでいたが、上述の通り2013年に閉店した。

詳細情報

編集

年度別投手成績

編集




















































W
H
I
P
1981 中日 6 5 0 0 0 1 2 0 -- .333 96 21.1 23 2 15 0 1 17 1 0 17 15 6.43 1.78
1982 34 26 6 1 0 9 7 0 -- .563 743 176.0 160 17 69 8 7 132 4 1 81 68 3.48 1.30
1983 32 29 8 3 1 10 10 0 -- .500 900 213.1 214 25 64 1 4 159 4 0 100 89 3.75 1.30
1984 34 32 11 2 2 13 11 0 -- .542 912 216.0 202 27 76 1 2 177 2 0 90 78 3.25 1.29
1985 34 29 15 1 2 11 11 3 -- .500 954 230.1 224 38 57 3 5 157 1 1 102 89 3.48 1.22
1986 30 27 9 2 0 11 10 0 -- .524 738 177.1 164 27 53 5 2 127 2 1 76 72 3.65 1.22
1987 59 0 0 0 0 4 3 26 -- .571 376 98.0 64 5 27 8 1 70 2 0 19 17 1.56 0.93
1988 61 0 0 0 0 7 6 37 -- .538 428 111.0 73 9 31 3 3 94 5 0 27 24 1.95 0.94
1989 42 1 1 0 0 5 3 25 -- .625 287 74.0 57 5 18 2 1 69 2 0 19 19 2.31 1.01
1990 22 7 0 0 0 2 6 0 -- .250 296 67.1 74 11 30 1 3 57 3 1 42 39 5.21 1.54
1991 33 18 9 4 1 13 9 2 -- .591 663 163.0 131 11 48 2 6 95 0 0 52 49 2.71 1.10
1992 18 14 2 0 0 4 3 0 -- .571 379 90.0 93 6 25 1 1 54 3 0 37 30 3.00 1.31
1993 39 13 4 2 0 3 9 17 -- .250 453 107.2 107 11 34 4 4 78 0 0 44 41 3.43 1.31
1994 21 19 7 2 0 8 7 2 -- .533 551 139.1 125 9 32 4 4 85 2 0 43 38 2.45 1.13
1995 26 10 0 0 0 5 8 4 -- .385 348 80.2 85 16 24 5 5 40 3 0 44 36 4.02 1.35
1996 5 0 0 0 0 0 1 0 -- .000 29 5.2 6 0 5 1 0 4 1 1 2 2 3.18 1.94
1997 統一 13 12 1 0 0 5 3 0 -- .625 265 64.1 65 7 13 0 3 61 3 0 32 25 3.50 1.21
1998 和信 24 20 3 0 0 14 3 0 -- .824 584 140.2 133 4 37 1 8 87 1 0 51 39 2.50 1.21
1999 15 15 0 0 0 9 5 0 -- .643 357 88.1 73 6 14 0 5 56 3 0 30 23 2.34 0.98
NPB:16年 496 230 72 17 6 106 106 116 -- .500 8153 1971.0 1802 219 608 49 49 1415 35 5 795 706 3.22 1.22
CPBL:3年 52 47 4 0 0 28 11 0 -- .718 1206 293.1 271 17 64 1 16 204 7 0 113 87 2.67 1.14
  • 各年度の太字はリーグ最高

タイトル

編集
NPB

表彰

編集
NPB
CPBL

記録

編集
NPB初記録
NPB節目の記録
  • 1000奪三振:1989年10月13日、対横浜大洋ホエールズ25回戦(ナゴヤ球場)、7回表に遠藤一彦から ※史上81人目
  • 100セーブ:1993年8月11日、対阪神タイガース15回戦(ナゴヤ球場)、8回表1死に6番手で救援登板・完了、1回2/3無失点 ※史上7人目
  • 100勝:1994年9月21日、対阪神タイガース25回戦(ナゴヤ球場)、9回完封勝利 ※史上112人目
NPBその他の記録

背番号

編集
  • 30 (1981年 - 1985年)
  • 33 (1986年 - 1999年)

関連情報

編集

著書

編集

脚注

編集

注釈

編集
  1. ^ 10.8決戦で郭の起用を控えた理由として、郭の性格的なことなどから、高木は「勢いに乗せて出すと、非常にいいピッチングをするんですが、負けている場面で出すと、というところもありましたから。タイトルがかかっているのに、負け試合の気分の乗らないところでマウンドに上げるのは、ちょっと可哀想だなという気持ちが私の中にあったんです」と述べている[50]
  2. ^ 最も前述通り3000万円以上の契約金(1980年当時、一部の目玉選手を除いたドラフト上位指名選手の契約金に匹敵)を提示した他球団を蹴って中日を選んだのは郭源治自身の判断であった。また郭泰源は第27回IBAFワールドカップロサンゼルスオリンピックの出場で日本のみならずメジャーリーグの球団も獲得を検討した事が契約金高騰の要因となった。

出典

編集
  1. ^ a b c d 「セカンドキャリアの球人力 郭源治」『週刊ベースボール』2012年2月27日号、ベースボール・マガジン社、P.88-89
  2. ^ a b c d 郭源治 人生を懸けて来日した竜のクローザー/プロ野球1980年代の名選手”. 週刊ベースボールONLINE. 2020年8月25日閲覧。
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m n o 木村元彦「現代の肖像 郭源治 元中日ドラゴンズ投手 海を超えた『山の子』の快速球。」『AERA』、1999年5月10日号、P.62-66
  4. ^ a b 「守護神伝説 クレバーなストッパー、郭源治の知られざる真実」『Sports Graphic Number』、1988年10月5日号、P.19
  5. ^ 森哲志『不屈のプレイボール―元プロ野球選手、球場去りし後の「負けない人生』、河出書房新社、2002年、ISBN 430926543X、P.56
  6. ^ 森哲志、2002年、P.57
  7. ^ a b c 森哲志、2002年、P.58
  8. ^ 森哲志、2002年、P.54
  9. ^ a b 『朝日新聞』、1981年7月30日付朝刊、P.16
  10. ^ 『朝日新聞』、1981年3月27日付朝刊、P.17
  11. ^ 『朝日新聞』、1981年8月31日付朝刊、P.18
  12. ^ 「台湾プレーヤーのパイオニア 郭源治 『人生を賭けた大きなチャレンジ。日本で成功することは僕の使命だった』」『週刊ベースボール』、2002年7月8日号、P.32
  13. ^ a b c 『週刊ベースボール』、2002年7月8日号、P.33
  14. ^ 別冊宝島『プロ野球名選手読本』(宝島社)P.100
  15. ^ 『朝日新聞』、1982年6月28日付朝刊、P.19
  16. ^ 『朝日新聞』、1982年8月30日付朝刊、P.19
  17. ^ 日本野球機構 1982年度日本シリーズ 試合結果(第1戦)
  18. ^ 森哲志、2002年、P.59
  19. ^ 『朝日新聞』、1984年3月14日付朝刊、P.16
  20. ^ 『読売新聞』、1984年8月30日付朝刊、P.17
  21. ^ 『読売新聞』、1985年12月6日付朝刊、P.17
  22. ^ 1986年12月9日付朝刊、P.17
  23. ^ a b c 『Sports Graphic Number』、1988年10月5日号、P.16
  24. ^ 「記録の手帳 1420回 ライバルたちと比べても抜群の安定度 史上最強の守護神・郭源治」『週刊ベースボール』、1988年8月22日号、P.40
  25. ^ a b 『毎日新聞』、1987年12月23日付朝刊、P.17
  26. ^ a b 「日台合作的超優良龍組棒球隊投手 郭源治、8年目の大躍進!」『週刊ベースボール』、1988年7月21日号、P.27
  27. ^ a b 『週刊ベースボール』、1988年7月21日号、P.24
  28. ^ 『毎日新聞』、1988年7月7日付朝刊、P.19
  29. ^ 『読売新聞』、1988年10月8日付朝刊、P.18
  30. ^ 『読売新聞』、1988年10月3日付朝刊、P.18
  31. ^ 日本野球機構 1988年度日本シリーズ 試合結果(第2戦)
  32. ^ a b 『読売新聞』、1988年10月28日付朝刊、P.19
  33. ^ 『読売新聞』、1988年10月30日付朝刊、P.18
  34. ^ 「今やジョーシキの1億円プレーヤーたちの金銭感覚とリッチ度」『週刊ベースボール』、1989年1月9日号、P.37
  35. ^ 『朝日新聞』、1989年3月15日付朝刊、P.23
  36. ^ 『朝日新聞』、1989年8月12日付朝刊、P.17
  37. ^ 『朝日新聞』、1989年9月7日付朝刊、P.22
  38. ^ 『読売新聞』、1989年12月10日付朝刊、P.19
  39. ^ 『読売新聞』、1990年4月13日付朝刊、P.19
  40. ^ 『読売新聞』、1990年6月9日付朝刊、P.18
  41. ^ 『読売新聞』、1991年7月6日付朝刊、P.19
  42. ^ 『読売新聞』、1991年12月28日付朝刊、P15
  43. ^ 『読売新聞』、1992年4月5日付朝刊、P.18
  44. ^ 『読売新聞』、1992年7月30日付朝刊、P.19
  45. ^ 『毎日新聞』、1993年12月9日付朝刊、P.20
  46. ^ 『読売新聞』、1993年4月28日付朝刊、P.23
  47. ^ 『朝日新聞』、1993年12月25日付朝刊、P.21
  48. ^ 『朝日新聞』、1994年5月22日付朝刊、P.21
  49. ^ 『読売新聞』、1994年10月7日付夕刊、P.3
  50. ^ 鷲田康『10・8―巨人vs.中日史上最高の決戦』文藝春秋、2013年、ISBN 978-4163756400、P.139
  51. ^ 『朝日新聞』、1995年1月18日付朝刊、P.25
  52. ^ 『朝日新聞』、1996年1月21日付朝刊、P.26
  53. ^ 『朝日新聞』、1996年10月18日付朝刊、P.27
  54. ^ 『朝日新聞』、1996年11月23日付朝刊、P.19
  55. ^ 『読売新聞』、1997年3月19日付朝刊、P.16
  56. ^ a b 『毎日新聞』、1999年6月22日付夕刊、P.2
  57. ^ 『朝日新聞』、1999年9月8日付朝刊、P.20
  58. ^ 『読売新聞』、1999年9月17日付朝刊、P.22
  59. ^ a b 「決断 郭源治」『AERA』、2000年11月6日号、P.74
  60. ^ 『朝日新聞』、1999年9月26日付朝刊、P.27
  61. ^ 『読売新聞』、2001年9月13日付朝刊、P.33
  62. ^ 『朝日新聞』、2009年10月15日付夕刊、P.9
  63. ^ “郭源治氏「実力がないとできない」中日柳の好投喜ぶ”. 日刊スポーツ. (2019年5月12日). https://www.nikkansports.com/baseball/news/201905110000922.html 2019年8月4日閲覧。 
  64. ^ 伝説のプレーヤー郭源治、中華プロ野球の首席顧問に - exciteニュース、2012年12月25日配信
  65. ^ 『毎日新聞』、2013年3月16日付朝刊、中部本社版、P.29
  66. ^ アジア・シリーズ中止危機 台湾側から連絡「開催できない可能性」 - スポーツニッポン、2014年9月2日
  67. ^ 研修コーチの受け入れに関して. 東北楽天ゴールデンイーグルス. 2018年1月29日配信
  68. ^ 元中日の郭源治氏、台湾野球殿堂入り 日本時代末期に活躍した洪太山氏も”. フォーカス台湾. 中央通訊社 (2019年1月22日). 2022年11月28日閲覧。
  69. ^ a b c 『Sports Graphic Number』、1988年10月5日号、P.18
  70. ^ a b c d 『Sports Graphic Number』、1988年10月5日号、P.20
  71. ^ 星野中日V1の立役者、あのイチローも少年時代に憧れた“踊る守護神”郭源治/昭和助っ人賛歌【プロ野球死亡遊戯】”. 週刊ベースボールONLINE. 2021年9月15日閲覧。
  72. ^ 『週刊ベースボール』、1988年8月22日号、P.43
  73. ^ 『朝日新聞』、1988年5月14日付朝刊、P.23
  74. ^ a b c 「来季こそ監督を日本一にするために 涙にこめられた密かな決意」『Sports Graphic Number』、1988年11月20日号、P.43
  75. ^ a b 別冊宝島『プロ野球名選手読本』(宝島社)P.98-99
  76. ^ 『朝日新聞』、1985年1月26日付 夕刊、P.3
  77. ^ 森哲志、2002年、P.64
  78. ^ a b c 「海外取材特集 郭“先生”のがい旋 大フィーバー」『週刊ベースボール』、1988年12月5日号、P.4
  79. ^ 別冊宝島『プロ野球名選手読本』(宝島社)P.101-102
  80. ^ 森哲志、2002年、P.60
  81. ^ “「矢場とん」野球部 抑えは中日OB郭源治の長男”. 日刊スポーツ. (2015年4月21日). https://www.nikkansports.com/baseball/news/1464794.html 2019年3月24日閲覧。 
  82. ^ a b “元中日投手・郭源治氏、次男の俳優・佳久創と涙のテレビ初共演”. スポーツ報知. (2019年9月6日). https://hochi.news/articles/20190906-OHT1T50202.html 2019年10月14日閲覧。 
  83. ^ 【ヴェルブリッツ】2014年度 引退選手インタビュー WTB 佳久 創”. トヨタヴェルブリッツ TOYOTA VERBLITZ (2015年3月24日). 2019年4月8日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年7月2日閲覧。
  84. ^ So Kaku 佳久 創”. ACROSS ENTERTAINMENT. 2019年3月24日閲覧。

関連項目

編集

外部リンク

編集