郭 広意(かく こうい))は、紀元前1世紀の中国前漢時代の人物である。生没年不明。旧字で郭廣意執金吾。本項目では、姓が不明で広意を名とする前漢の人物についても触れる。

郭広意

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後元2年(紀元前87年)に老齢の武帝が病死すると、皇太子に立てられていた末子の昭帝が即位した。武帝の三男で成人していた劉旦は、情勢を探るために3人の臣下を都に遣わした[1]。その一人、王孺の問い合わせに応じたのが、執金吾の広意であった[1]

広意は、「五莋宮で待命していたところ、宮中に帝が報じたという声がかけめぐった。諸将軍がともに太子を立てて帝とした。年は八、九歳で、葬儀に出てこなかった」と答えた[1]。他の情報も併せ、燕王は昭帝の即位に不信感を持ったという[1]

この年、郭広意は執金吾を免じられた[2]

姓不明の広意

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以上を記した『漢書』に、郭広意の姓名が記されるのは免職の所しかない。王孺とのやりとりの件では、姓を欠いた広意の名で書かれている。それを郭広意と推定するのは、執金吾という同じ官職に同じ年についていたためである。

姓不明の広意は『漢書』の別の箇所にも見える。前には景帝後2年(紀元前141年)に執金吾の前身である中尉になった広義[3]。後には宣帝元康2年(紀元前64年)に執金吾になった広義である[4]。それぞれ後元2年の54年前、23年後だが、前者を郭広意にあてる学者もいる[5]

前漢には別に斥丘侯唐広義[6]禾成侯公孫広義[7]がいて、極端に珍しい名ではなかったようである。

脚注

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  1. ^ a b c d 『漢書』巻63、武五子伝第33。ちくま学芸文庫「漢書」5の540頁。
  2. ^ 『漢書』巻19下、百官公卿表第7下、後元2年。『『漢書』百官公卿表訳注』206頁。
  3. ^ 『漢書』巻19下、百官公卿表第7下、景帝後2年。『『漢書』百官公卿表訳注』200頁。
  4. ^ 『漢書』巻19下、百官公卿表第7下、元康2年。『『漢書』百官公卿表訳注』208頁。
  5. ^ 『『漢書』百官公卿表訳注』200頁。
  6. ^ 『漢書』巻16、高恵高后文功臣表第4、斥丘懿侯唐万。
  7. ^ 『漢書』巻16、高恵高后文功臣表第4、禾成孝侯公孫昔。

参考文献

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  • 班固著、『漢書
    • 小竹武夫訳『漢書』1から8、筑摩書房、ちくま学芸文庫、1998年。
    • 大庭脩監修、漢書百官公卿表研究会『『漢書』百官公卿表訳注』、朋友書店、2014年。

外部リンク

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