郝 経(かく けい、1223年 - 1275年)は、モンゴル帝国大元ウルス)に仕えた漢人官僚の一人。字は伯常。即位前のクビライの指針を決する重大な献策を何度も行ったが、使者として派遣された南宋で16年に渡って拘禁された逸話で知られる。

生涯

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郝経の祖先は潞州から沢州陵川県に移住した人物で、以後その子孫は代々儒学を家業としてきた。金末、郝経の父の郝思温は兵乱を避けて汝州魯山県に逃れたが、避難先に火をかけられ瀕死となった母を当時9歳の郝経が蘇生させたという逸話が伝えられている。金朝が滅亡した後、郝経は順天路に移住し貧しい生活を続けながら学問を続ける日々を5年送った。この頃、順天路を拠点としていた漢人世侯張柔とその配下の賈輔は郝経の才を知ると、これを上客として遇するようになった。金朝所蔵の書物を回収・保存していた張柔の下には万巻の蔵書があり、郝経はこれらの書に通じて博覧強記で知られるようになった[1]

1252年壬子/憲宗2年)、憲宗モンケ・カアンより東アジア方面軍の司令官に任じられた皇弟クビライは金蓮川(後の上都)を拠点とし、既に名声が知れ渡っていた郝経を召し出して自らの王府に置いた[2]1259年己未/憲宗9年)、四川方面に侵攻したモンケの親征軍が「久しく功なく」、苦戦している情勢を踏まえ、郝経は後に「東師議」と呼ばれる献策を行った[3][4]。その論旨は多岐にわたるが、要約すると「現時点で南宋を征服する機は熟しておらず、晋による呉の征服隋による陳の征服のように、10年余りの長時間をかけて取り組むべし」という内容であった。この時経が提唱した「十年余りかけて南未征服を行うべし」「恵子から淮河、淮河から長江へと進軍すべし」といった内容は、クビライが即位して以後の南宋戦略に採用されている[5]

また、同年中に熱病によってモンケ・カアンが急死したとの報が届くと、クビライと側近たちの間で今後の方策を論じる会議が開かれた[6]。クビライの最も信頼する腹心の部下であるバアトルの献策により、クビライ軍は敢えて撤退せず南下して鄂州を包囲した。鄂州包囲中の11月24日、郝経は後に「班師議」と呼ばれる献策を行い、この意見に従ってクビライは北上し帝位を狙うこととなった[7][8]。この「班師議」は当時のクビライ陣営が当時の情勢をどう認識していたかを克明に記す、重要史料と位置付けられている[9]

中統元年(1260年)にクビライが即位を宣言すると、郝経は翰林侍読学士に任じられた上で、南宋国へクビライの即位を告げる使者として赴くよう命じられた。郝経の名声を嫉む王文統が益都の大軍閥である李璮と組んで郝経を妨害しようとしたものの、李璮が淮安の戦いで南宋軍に敗れたこともあり、郝経は宿州まで至った。ここで郝経は副使の劉仁傑・参議の高翿らを派遣して入国の許可を求めたが、返答はなかった。一方、南宋側では宰相の賈似道がモンゴル撃退の功を得たいがために最初から郝経を受け容れるつもりはなく、真州にて郝経を捕縛し軟禁状態に置いた。郝経は釈放と帰国を何度も求めたが許されず、厳重な警戒の中で脱走することもできない状態に何年も置かれた。郝経は決して使命を果たすことを諦めなかったが、監禁から7年目には従者たちが死者を出す乱闘を起こしたため、郝経一人のみが別所に移され9年間を過ごすこととなった[10]

郝経の軟禁から16年目の至元11年(1274年)、襄陽城が陥落しバヤンを総司令とする南宋領全面侵攻が目前となった頃、クビライは改めて礼部尚書中都海牙や郝経の弟である行枢密院都事郝庸らを派遣し郝経を軟禁した罪を問うた。追い詰められた南宋朝廷はここに至ってようやく郝経の送還を決め、総管の段佑に護送を命じた。長年の監禁生活で郝経は病を患っていたため、クビライは枢密院の高官や近侍の医師たちに出迎えを命じ、郝経の帰路に立ち会った者達は忠節を尽くした姿に涙を流して見送ったという。至元12年(1275年)夏、ようやくクビライへの謁見を果たした郝経は歓待されたが、長年の心労がたたったためか、同年7月に53歳にして亡くなった。くしくもその翌年、南宋の首都の臨安は陥落し、南宋は事実上滅亡に至っている[11][12]

なお、南宋での16年にわたる抑留の間でも郝経は学問に励み、従者達に教授を行ったため、従者達も学問に通じるようになったとの逸話が残されている[13]。郝経には郝彝・郝庸という2人の弟がおり、郝彝は仕官することなく生涯を終え、郝庸の家系は大元ウルスに仕えて官職を得ている。息子に郝采麟がおり、大元ウルスに仕えて山南江北道粛政廉訪使の地位に至っている[14]

脚注

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  1. ^ 『元史』巻157列伝第44郝経伝,「郝経字伯常、其先潞州人、徙沢州之陵川、家世業儒。祖天挺、元裕嘗従之学。金末、父思温辟地河南之魯山。河南乱、居民匿窖中、乱兵以火熏灼之、民多死、経母許亦死。経以蜜和寒葅汁、決母歯飲之、即蘇。時経九歳、人皆異之。金亡、徙順天。家貧、晝則負薪米為養、暮則読書。居五年、為守帥張柔・賈輔所知、延為上客。二家蔵書皆万巻、経博覧無不通。往来燕・趙間、元裕每語之曰『子貌類汝祖、才器非常、勉之』」
  2. ^ 『元史』巻157列伝第44郝経伝,「憲宗二年、世祖以皇弟開邸金蓮川、召経、諮以経国安民之道、条上数十事、大悦、遂留王府。是時、連兵於宋、憲宗入蜀、命世祖総統東師、経従至濮。会有得宋国奏議以献、其言謹辺防、守衝要、凡七道、遂下諸将議、経曰『古之一天下者、以徳不以力。彼今未有敗亡之釁、我乃空国而出、諸侯窺伺於内、小民凋弊於外。経見其危、未見其利也。王不如修徳布恵、敦族簡賢、綏懐遠人、控制諸道、結盟飭備、以待西師、上応天心、下繋人望、順時而動、宋不足図也』。世祖以経儒生、愕然曰『汝与張抜都議邪』。経対曰『経少館張柔家、嘗聞其論議。此則経臆説耳、柔不知也』。進七道議七千餘言。乃以楊惟中為江淮荊湖南北等路宣撫使、経為副、将帰徳軍、先至江上、宣布恩信、納降附。惟中欲私還汴、経曰『我与公同受命南征、不聞受命還汴也』。惟中怒、弗聴。経率麾下揚旌而南、惟中懼謝、乃与経倶行」
  3. ^ 胡 1984, p. 109.
  4. ^ 『元史』巻157列伝第44郝経伝,「経聞憲宗在蜀、師久無功、進東師議、其略曰『経聞図天下之事於未然則易、救天下之事於已然則難。已然之中復有未然者、使往者不失而来者得遂、是尤難也。国家以一旅之衆、奮起朔漠、斡斗極以図天下、馬首所向無不摧破。滅金源、併西夏、蹂荊・襄、克成都、平大理、躪轢諸夷、奄征四海、有天下十八、尽元魏・金源故地而加多、廓然莫与侔大也。惟宋不下、未能混一、連兵構禍踰二十年。何曩時掇取之易、而今日図惟之難也。夫取天下、有可以力併、有可以術図。併之以力則不可久、久則頓弊而不振。図之以術則不可急、急則僥倖而難成。故自漢・唐以来、樹立攻取、或五六年、未有踰十年者、是以其力不弊、而卒能保大定功。晋之取呉、隋之取陳、皆経営比佽十有餘年、是以其術得成、而卒能混一。或久或近、要之成功各当其可、不妄為而已。国家建極開統垂五十年、而一之以兵、遺黎残姓、游気驚魂、虔劉劘盪、殆欲殲尽。自古用兵未有如是之久且多也、其力安得不弊乎。且括兵率賦、朝下令而夕出師、躬擐甲冑、跋履山川、闔国大挙、以之伐宋而図混一。以志則鋭、以力則強、以土則大、而其術則未尽也。苟於諸国既平之後、息師撫民、致治成化、創法立制、敷布條綱、上下井井、不撓不紊、任老成為輔相、起英特為将帥、選賢能為任使、鳩智計為機衡、平賦以足用、屯農以足食、内治既挙、外禦亦備。如其不服、姑以文誥、拒而不従、而後伺隙観釁以正天伐。自東海至于襄・鄧、重兵数道、聯幟接武、以為正兵。自漢中至于大理、軽兵捷出、批亢抵脅、以為奇兵。帥臣得人、師出以律、高拱九重之内、而海外有截矣。是而不為、乃於間歳遽為大挙、上下震動、兵連禍結、底安于危、是已然而莫可止者也。東師未出、大王仁明、則猶有未然者、可不議乎。国家用兵、一以国俗為制、而不師古。不計師之衆寡、地之険易、敵之強弱、必合囲把矟、猟取之若禽獣然。聚如丘山、散如風雨、迅如雷電、捷如鷹鶻、鞭弭所属、指期約日、万里不忒、得兵家之詭道、而長於用奇。自澮河之戦、乗勝下燕・雲、遂遺兵而去、似無意於取者。既破回鶻、滅西夏、乃下兵関陝以敗金師、然後知所以深取之、是長於用奇也。既而為斡腹之挙、由金・房繞出潼関之背以攻汴。為擣虚之計、自西和逕入石泉・威・茂以取蜀。為示遠之謀、自臨洮・吐蕃穿徹西南以平大理。皆用奇也。夫攻其無備、出其不意、而後可以用奇。豈有連百万之衆、首尾万餘里、六飛雷動、乗輿親出、竭天下、倒四海、騰擲宇宙、軒豁天地、大極於遐徼之土、細窮於委巷之民、撞其鐘而掩其耳、囓其臍而蔽其目、如是用奇乎。是執千金之璧而投瓦石也。其初以奇勝也、関隴・江淮之北、平原曠野之多、而吾長於騎、故所向不能禦。兵鋒新鋭、民物稠夥、擁而擠之、郡邑自潰、而吾長於攻、故所撃無不破。是以用其奇而驟勝。今限以大山深谷、阨以重険薦阻、迂以危途繚径、我之乗険以用奇則難、彼之因険以制奇則易。況於客主勢懸、蘊蓄情露、無虜掠以為資、無俘獲以備役、以有限之力、冒無限之険、雖有奇謀秘略、無所用之。力無所用与無力同、勇無所施与不勇同、計不能行与無計同。泰山圧卵之勢、河海濯爇之挙、擁遏頓滞、盤桓而不得進、所謂強弩之末不能射魯縞者也。為今之計、則宜救已然之失、防未然之変而已。西師既構、猝不可解、如両虎相闘、猝入于巌阻、見之者辟易不暇、又焉能以理相喩、使之逡巡自退。彼知其危、竭国以并命、我必其取、無由以自悔、兵連禍結、何時而已。殿下宜遣人稟命於行在所、大軍圧境、遣使喩宋、示以大信、令降名進幣、割地納質。彼必受命、姑為之和、偃兵息民、以全吾力、而図後挙、天地人神之福也。稟命不従、殿下之義尽、而後進吾師、重慎詳審、不為躁軽飄忽、為前定之謀、而一之以正大、假西師以為奇而用吾正。比師南轅、先示恩信、申其文移、喩以禍福、使知殿下仁而不殺、非好攻戦闢土地、不得已而用兵之意。誠意昭著、恩信流行、然後閲実精勇、別為一軍、為帳下之卒、挙老成知兵者俾為将帥、更直宿衛、以備不虞。其餘師衆、各畀侯伯、使吾府大官元臣分師総統、為戦攻之卒。其新入部曲瞢不知兵、雖名為兵其実役徒者、使沿辺進築、与敵郡邑犬牙相制、為屯戍之卒。推択単弱、究竟逃匿、編葺部伍、使聞望重臣為之撫育、総押近里故屯、為鎮守之卒。使掣肘之計不行、妄意之徒屏息、内外備禦無有缺綻、則制節以進。既入其境、敦陳固列、緩為之行。彼善於守而吾不攻、彼恃城壁以不戦老吾、吾合長囲以不攻困彼、吾用吾之所長、彼不能用其長。選出入便利之地為久駐之基、示必取之勢。毋焚廬舎、毋傷人民、開其生路、以携其心、亟肄以疲、多方以誤、以弊其力。兵勢既振、蘊蓄既見、則以軽兵掠両淮、杜其樵採而遏其糧路、使血脈断絶、各守孤城、示不足取。即進大兵、直抵于江、沿江上下列屯万竈、号令明粛、部曲厳整、首尾締構、各具舟楫、声言徑渡。彼必震畳、自起変故。蓋彼之精鋭尽在両淮、江面闊越、恃其巌阻、兵皆柔脆、用兵以来未嘗一戦、焉能当我百戦之鋭。一処崩壊、則望風皆潰、肱髀不續、外内限絶、勇者不能用而怯者不能敵、背者不能返而面者不能禦、水陸相擠、必為我乗。是兵家所謂避堅攻瑕、避実撃虚者也。如欲存養兵力、漸次以進、以図万全、則先荊後淮、先淮後江。彼之素論、謂『有荊・襄則可以保淮甸、有淮甸則可以保江南』。先是、我嘗有荊・襄、有淮甸、有上流、皆自失之。今当従彼所保以為吾攻、命一軍出襄・鄧、直渡漢水、造舟為梁、水陸済師。以軽兵綴襄陽、絶其糧路、重兵皆趨漢陽、出其不意、以伺江隙。不然、則重兵臨襄陽、軽兵捷出、穿徹均・房、遠叩帰・峡、以応西師。如交・広・施・黔選鋒透出、夔門不守、大勢順流、即并兵大出、摧拉荊・郢、横潰湘・潭、以成掎角。一軍出寿春、乗其鋭気、并取荊山、駕淮為梁、以通南北。軽兵抄寿春、而重兵支布於鍾離・合肥之間、掇拾湖濼、奪取関隘、拠濡須、塞皖口、南入舒・和、西及於蘄・黄、徜徉恣肆、以覘江口。烏江・采石広布戍邏、偵江渡之険易、測備禦之疏密、徐為之謀、而後進師。所謂潰両淮之腹心、抉長江之襟要也。一軍出維揚、連楚蟠亘、蹈跨長淮、隣我強対。通・泰・海門、揚子江面、密彼京畿、必皆備禦堅厚、若遽攻撃、則必老師費財。当以重兵臨維揚、合為長囲、示以必取。而以軽兵出通・泰、直塞海門・瓜歩・金山・柴墟河口、游騎上下、吞江吸海、並著威信、遅以月時、以観其変。是所謂図緩持久之勢也。三道並出、東西連衡、殿下或処一軍、為之節制、使我兵力常有餘裕、如是則未来之変或可弭、已然之失一日或可救也。議者必曰、三道並進、則兵分勢弱、不若併力一向、則莫我当也。曽不知取国之術与爭地之術異、併力一向、争地之術也。諸道並進、取国之術也。昔之混一者、皆若是矣。晋取呉、則六道進。隋取陳、則九道進。宋之於南唐、則三面皆進。未聞以一旅之衆、而能克国者、或者有之、僥幸之挙也。豈有堂堂大国、師徒百万、而為僥幸之挙乎。況彼渡江立国、百有餘年、紀綱修明、風俗完厚、君臣輯睦、内無禍釁、東西南北輪広万里、亦未可小。自敗盟以来、無日不討軍実而申警之、彷徨百折、当我強対、未嘗大敗、不可謂弱。豈可蔑視、謂秦無人、直欲一軍倖而取勝乎。秦王問王翦以伐荊、翦曰『非六十万不可』。秦王曰『将軍老矣』。命李信将二十万往、不克、卒畀翦以兵六十万而後挙楚。蓋衆有所必用、事勢有不可懸料而倖取者。故王者之挙必万全、其倖挙者、崛起無頼之人也。 嗚呼、西師之出、已及瓜戍、而猶未即功。国家全盛之力在於東左、若亦直前振迅、鋭而図功、一挙而下金陵・挙臨安則可也。如兵力耗弊、役成遷延、進退不可、反為敵人所乗、悔可及乎。固宜重慎詳審、図之以術。若前所陳、以全吾力、是所謂坐勝也。雖然、猶有可憂者。国家掇取諸国、飄忽凌厲、本以力勝。今乃無故而為大挙、若又措置失宜、無以挫英雄之気、服天下之心、則稔悪懐姦之流、得以窺其隙而投其間、国内空虚、易為揺蕩。臣愚所以諄諄於東師、反覆致論、謂不在於已然而在於未然者、此也』」
  5. ^ 胡 1984, p. 110.
  6. ^ 杉山 2004, p. 96.
  7. ^ 胡 1984, p. 111.
  8. ^ 『元史』巻157列伝第44郝経伝,「遂会兵渡江、囲鄂州、聞憲宗崩、召諸将属議、経復進議曰『易言『知進退存亡而不失其正者、其惟聖人乎』。殿下聡明睿知、足以有臨。発強剛毅、足以有断。進退存亡之正、知之久矣。嚮在沙陀、命経曰『時未可也』。又曰『時之一字最当整理』。又曰『可行之時、爾自知之』。大哉王言、『時乗六龍』之道、知之久矣。自出師以来、進而不退、経有所未解者、故言于真定、于曹・濮、于唐・鄧。亟言不已、未賜開允。乃今事急、故復進狂言。国家自平金以来、惟務進取、不遵養時晦、老師費財、卒無成功、三十年矣。蒙哥罕立、政当安静以図寧謐、忽無故大挙、進而不退、畀王東師、則不当亦進也而遽進。以為有命不敢自逸、至于汝南、既聞凶訃、即当遣使遍告諸帥各以次退、修好于宋、帰定大事、不当復進也而遽進。以有師期、会于江浜、遣使喩宋、息兵安民、振旅而帰、不当復進也而又進。既不宜渡淮、又豈宜渡江。既不宜妄進、又豈宜攻城。若以機不可失、敵不可縦、亦既渡江、不能中止、便当乗虚取鄂、分兵四出、直造臨安、疾雷不及掩耳、則宋亦可図。如其不可、知難而退、不失為金兀朮也。師不当進而進、江不当渡而渡、城不当攻而攻、当速退而不退、当速進而不進、役成遷延、盤桓江渚、情見勢屈、挙天下兵力不能取一城、則我竭彼盈、又何俟乎。且諸軍疾疫已十四五、又延引月日、冬春之交、疫必大作、恐欲還不能。彼既上流無虞、呂文徳已并兵拒守、知我国疵、闘気自倍、両淮之兵尽集白鷺、江西之兵尽集隆興、嶺広之兵尽集長沙、閩・越沿海巨舶大艦以次而至、伺隙而進、如遏截於江・黄津渡、邀遮于大城関口、塞漢東之石門、限郢・復之湖濼、則我将安帰。無已則突入江・浙、擣其心腹。聞臨安・海門已具龍舟、則已徒往。還抵金山、并命求出、豈無韓世忠之儔。且鄂与漢陽分拠大別、中挾巨浸、号為活城、肉薄骨并而抜之、則彼委破壁孤城而去、溯流而上、則入洞庭、保荊・襄、順流而下、則精兵健櫓突過滸・黄、未易遏也、則亦徒費人命、我安所得哉。区区一城、勝之不武、不勝則大損威望、復何俟乎。雖然、以王本心、不欲渡江、既渡江、不欲攻城、既攻城、不欲并命、不焚廬舎、不傷人民、不易其衣冠、不毀其墳墓、三百里外不使侵掠。或勧径趨臨安、曰其民人稠夥、若往、雖不殺戮、亦被踐蹂、吾所不忍。若天与我、不必殺人。若天弗与、殺人何益、而竟不往。諸将帰罪士人、謂不可用、以不殺人故不得城。曰彼守城者祇一士人賈制置、汝十万衆不能勝、殺人数月不能抜、汝輩之罪也、豈士人之罪乎。益禁殺人。巋然一仁、上通于天、久有帰志、不能遂行耳。然今事急、不可不断也。宋人方懼大敵、自救之師雖則畢集、未暇謀我。第吾国内空虚、塔察国王与李行省肱髀相依、在於背脅。西域諸胡窺覘関隴、隔絶旭烈大王。病民諸姦各持両端、観望所立、莫不覬覦神器、染指垂涎。一有狡焉、或啓戎心、先人挙事、腹背受敵、大事去矣。且阿里不哥已行赦令、令脱里赤為断事官・行尚書省、拠燕都、按図籍、号令諸道、行皇帝事矣。雖大王素有人望、且握重兵、独不見金世宗・海陵之事乎。若彼果決、称受遺詔、便正位号、下詔中原、行赦江上、欲帰得乎。昨奉命与張仲一観新月城、自西南隅抵東北隅、万人敵、上可並行大車、排槎丳楼、締構重複、必不可攻、祇有許和而帰耳。断然班師、亟定大計、銷禍於未然。先命勁兵把截江面、与宋議和、許割淮南・漢上・梓夔両路、定疆界歳幣。置輜重、以軽騎帰、渡淮乗駅、直造燕都、則従天而下、彼之姦謀僭志、冰釈瓦解。遣一軍逆蒙哥罕霊輿、収皇帝璽。遣使召旭烈・阿里不哥・摩哥及諸王駙馬、会喪和林。差官於汴京・京兆・成都・西涼・東平・西京・北京、撫慰安輯、召真金太子鎮燕都、示以形勢。則大宝有帰、而社稷安矣』。会宋守帥賈似道亦遣間使請和、廼班師」
  9. ^ 杉山 2004, p. 99.
  10. ^ 『元史』巻157列伝第44郝経伝,「明年、世祖即位、以経為翰林侍読学士、佩金虎符、充国信使使宋、告即位、且定和議、仍勅沿辺諸将毋鈔掠。経入辞、賜葡萄酒、詔曰『朕初即位、庶事草創、卿当遠行、凡可輔朕者、亟以聞』。経奏便宜十六事、皆立政大要、辞多不載。時経有重名、平章王文統忌之。既行、文統陰属李璮潜師侵宋、欲假手害経。経至済南、璮以書止経、経以璮書聞于朝而行。宋敗璮軍于淮安、経至宿州、遣副使劉仁傑・参議高翿請入国日期、不報。遺書宰相及淮帥李庭芝、庭芝復書果疑経、而賈似道方以却敵為功、恐経至謀泄、竟館経真州。経乃上表宋主曰『願附魯連之義、排難解紛、豈知唐倹之徒、款兵誤国』。又数上書宋主及宰執、極陳戦和利害、且請入見及帰国、皆不報。駅吏棘垣鑰戸、晝夜守邏、欲以動経、経不屈。経待下素厳、又久羈困、下多怨者。経諭曰『嚮受命不進、我之罪也。一入宋境、死生進退、聴其在彼、我終不能屈身辱命。汝等不幸、宜忍以待之、我観宋祚将不久矣』。居七年、従者怒闘、死者数人、経独与六人処別館」
  11. ^ 杉山 2004, p. 107.
  12. ^ 『元史』巻157列伝第44郝経伝,「又九年、丞相伯顔奉詔南伐、帝遣礼部尚書中都海牙及経弟行枢密院都事郝庸入宋、問執行人之罪、宋懼、遣総管段佑以礼送経帰。賈似道之謀既泄、尋亦竄死。経帰道病、帝勅枢密院及尚医近侍迎労、所過父老瞻望流涕。明年夏、至闕、錫燕大庭、咨以政事、賞賚有差。秋七月、卒、年五十三、官為護喪還葬、諡文忠。明年、宋平」
  13. ^ 『元史』巻157列伝第44郝経伝,「経為人尚気節、為学務有用。及被留、思託言垂後、撰続後漢書・易春秋外伝・太極演・原古録・通鑑書法・玉衡貞観等書及文集、凡数百巻。其文豊蔚豪宕、善議論。詩多奇崛。拘宋十六年、従者皆通於学。書佐苟宗道、後官至国子祭酒。経還之歳、汴中民射雁金明池、得繋帛、書詩云『霜落風高恣所如、帰期回首是春初。上林天子援弓繳、窮海纍臣有帛書』。後題曰『至元五年九月一日放雁、獲者勿殺、国信大使郝経書于真州忠勇軍営新館』。其忠誠如此」
  14. ^ 『元史』巻157列伝第44郝経伝,「二弟彝・庸、皆有名。彝字仲常、隠居以寿終。庸字季常、終潁州守。子采麟、亦賢、起家知林州、仕至山南江北道粛政廉訪使」

参考文献

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  • 元史』巻157列伝第44郝経伝
  • 新元史』巻168列伝第65郝経伝
  • 杉山正明『モンゴル帝国と大元ウルス』京都大学学術出版会〈東洋史研究叢刊〉、2004年。ISBN 4876985227NCID BA66427768https://id.ndl.go.jp/bib/000007302776 
  • 胡多佳「郝経三題」『元史及北方民族史研究集刊』第8期、1984年