那須資房
戦国時代の武将。那須氏 (統一那須家) 17代。
那須 資房(なす すけふさ)は、戦国時代の武将。那須氏17代(公称上では20代[6])当主。
時代 | 戦国時代 |
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生誕 | 不明 |
死没 | 天文21年11月15日(1552年11月30日)[1] |
別名 | 太郎[2] |
戒名 |
笑月源藤[2]/孤峯院笑月源藤[3] 咲月源藤大禅定門[4] |
官位 | 大炊助・左衛門大夫・大膳大夫・修理大夫[2] |
氏族 | 那須氏 |
父母 | 父:那須資実、母:那須明資娘 |
兄弟 |
資房、武茂氏[2]/茂木氏[5]室、佐竹氏義室[2]、稲澤播磨守室[2]、木須頼実[5]、 資衡[2]、資仲[2] |
子 | 政資 |
下那須家当主・那須資実の子として誕生した。
寛正4年(1463年)、宇都宮義員らと岩城常隆と交戦し敗北するが、縄釣原の戦いでは勝利を収めた[7]。明応3年(1494年)、父・資実が没すると下那須家の当主となる[8]。永正6年(1509年)6月3日、塩谷城主・塩谷孝綱の家臣である大貫増長・油井利宗・印西成展らの謀反を誘発させようとするが失敗した[9]。
永正11年(1514年)[10]、那須氏15代(上那須家)当主・那須資親の死後、資親の実子・山田資久と養子・那須資永の間で家督争いが生じる。資房は資久を支持するが、内紛の最中に資久が資永に殺害されて上那須氏が断絶、資房は大田原資清らと共に資永を攻め自刃に追い込み、子・政資を上那須家の当主に据え、那須氏を事実上統一して実権を握った[11]。
この資房の行動に対して資永の実兄・結城顕頼を中心に岩城氏、下野宇都宮氏など近隣の諸勢力が那須氏に攻め寄せる事となる。永正17年(1520年)、岩城由隆が白河結城氏と共に[12]資房の子・政資を攻めるが、資房は宇都宮忠綱から援軍を得て政資を支援し、縄釣原で岩城軍を破っている[13]。翌大永元年(1521年)、岩城由隆が宇都宮忠綱や小田政治を誘い、資房の上川井城を攻めるが、資房が烏山城に退くと撤兵した[14]。資房はこの局面を打開するため、常陸国の佐竹氏の仲介で岩城常隆の娘を子・政資に娶わせ和睦を結んだ。
その後、家督を政資に譲り隠居したが、子・政資や孫・高資よりも長生きした。もう一人の孫・資胤が当主になった後の天文21年(1552年)、死去。
脚注
編集- ^ 『史料綜覧』第9編之910 361頁
- ^ a b c d e f g h 『那須系図』
- ^ 『系図纂要』
- ^ 『那須譜見聞録』
- ^ a b 『寛政重修諸家譜』
- ^ 資房より17代後の当主である那須正美が自身を37代目当主と称しており、現在の那須氏は上那須家・下那須家を両方とも正式な当主と見なしていると思われる。詳細は那須氏#系譜を参照。
- ^ 『史料綜覧』第7編之908 158頁
- ^ 『史料綜覧』第8編之909 2頁
- ^ 『大日本史料』第9編之1 772頁
- ^ 永正13年(1516年)とも。
- ^ 『大日本史料』第9編之6 316頁
- ^ 「白河義永」とあるが結城顕頼のことか?
- ^ 『大日本史料』第9編之11 173頁
- ^ 『大日本史料』第9編之13 328頁