邢 君牙(けい くんが、728年 - 798年)は、唐代軍人本貫瀛州楽寿県[1][2]

経歴

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若くして幽薊・平盧で従軍し、戦功により果毅郎将・折衝郎将を歴任し、平盧兵馬使をつとめた。安禄山の乱のとき、平盧節度使侯希逸に従って過海し、青州徐州の間に入った。上元年間、田神功劉展を討つと、君牙は田神功に従って戦功を挙げ、将軍を経て、光禄寺卿に試用された。田神功が兗鄆節度使となると、君牙は防秋の兵を率いて好畤に入り駐屯した。広徳元年(763年)、吐蕃長安に進入して、代宗陝州に逃れると、君牙は禁軍に属して代宗につき従った。後にさらに戦功により鴻臚寺卿の官職を加えられ、河間郡公に封じられた[1][2]

建中2年(781年)、魏博節度使田悦河朔三鎮が反乱を起こすと、李晟が禁軍を率いて馬燧らを助けて反乱軍を討った。君牙は李晟の下で都虞候となり、武安襄国洹水魏県清豊で反乱軍を討って戦功を挙げた。建中4年(783年)、涇原の兵が反乱を起こし、徳宗奉天に避難すると、君牙は李晟の下で帝の救援に向かった。軍を咸陽に駐屯させ、陣営を中渭橋に移した。李晟は軍中の事を君牙に相談して、他人に聞かせることがなかった。長安を奪回すると、君牙は御史大夫・検校常侍を加えられた。李晟が鳳翔・涇原元帥となり、軍を出動させるたびに、君牙がつねに知留後をつとめた[3][4]

貞元3年(787年)、李晟が太尉中書令として帰朝すると、君牙は代わって鳳翔尹・鳳翔隴州都防禦観察使となった。ほどなく右神策行営節度・鳳翔隴州観察使に転じ、検校工部尚書を加えられた。吐蕃が連年国境を犯したが、君牙が守備したため、大事にいたることがなかった。ほどなく検校尚書右僕射を加えられた[3][5]。貞元14年(798年)3月丙申、死去した[6]。享年は71。司空の位を追贈された[3][5]

脚注

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  1. ^ a b 旧唐書 1975, p. 3925.
  2. ^ a b 新唐書 1975, p. 4908.
  3. ^ a b c 旧唐書 1975, p. 3926.
  4. ^ 新唐書 1975, pp. 4908–4909.
  5. ^ a b 新唐書 1975, p. 4909.
  6. ^ 旧唐書 1975, p. 387.

伝記資料

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参考文献

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  • 『旧唐書』中華書局、1975年。ISBN 7-101-00319-2 
  • 『新唐書』中華書局、1975年。ISBN 7-101-00320-6