遠藤 要(えんどう かなめ、1915年10月31日 - 2010年6月20日)は、日本政治家

遠藤 要
えんどう かなめ
生年月日 1915年10月31日
出生地 宮城県白石市
没年月日 (2010-06-20) 2010年6月20日(94歳没)
出身校 宮城県白石高等小学校
(現・白石市立白石第一小学校
称号 正三位
勲一等旭日大綬章
参議院永年在職議員

日本の旗 第45代 法務大臣
内閣 第3次中曽根内閣
在任期間 1986年7月22日 - 1987年11月6日

選挙区 宮城県選挙区
当選回数 4回
在任期間 1974年7月8日 - 1998年7月25日

選挙区 白石・刈田選挙区
当選回数 7回
在任期間 1947年4月23日 - 1974年6月14日

その他の職歴
第20代 自由民主党参議院議員会長
(総裁:河野洋平橋本龍太郎
1995年 - 1996年
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宮城県議会議員を経て、参議院議員を4期務め、法務大臣自由民主党参議院議員総会長などを歴任。

人物

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学歴は、白石高等小学校(現在の宮城県白石市)卒業。

宮城県議会議員

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1947年昭和22年)、宮城県議会議員選挙に立候補し初当選し、同県議会議員に就任した。以後通算7回当選し、1971年(昭和46年)には同議会議長に選出された。

参議院議員

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1974年(昭和49年)の第10回参議院議員通常選挙に、自由民主党公認で立候補し当選、参議院議員に転身した。以後通算4回当選し、自由民主党内では田中派、竹下派(経世会)を経て、小渕派(平成研究会)に所属した。小渕派時代の1995年平成7年)には自民党参議院議員総会長に就任し、翌年まで務めた。

法務大臣

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1986年(昭和61年)に組閣された第3次中曽根内閣において、法務大臣に就任した。

遠藤が法務大臣就任中の1987年(昭和62年)、帝銀事件1948年)の犯人として1955年(昭和30年)に死刑判決が確定した死刑囚平沢貞通が、獄中で病死した。遠藤は結果的に、平沢への死刑執行権限を行使しなかった最後の法務大臣となり、確定死刑囚としての平沢の収監期間は世界最長記録となった。

後年

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1998年(平成10年)、 第18回参議院議員通常選挙で落選し、政界から引退した。

2010年(平成22年)6月20日肺炎のため死去。94歳没[1]

選挙歴

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当落 選挙 施行日 選挙区 政党 得票数 得票率 得票順位
/候補者数
比例区 比例順位
/候補者数
第10回参議院議員通常選挙 1974年7月7日 宮城県地方区 自由民主党 415,064 45.2 1/5 - -
第12回参議院議員通常選挙 1980年7月4日 宮城県地方区 自由民主党 561,975 55.4 1/3 - -
第14回参議院議員通常選挙 1986年7月6日 宮城県選挙区 自由民主党 530,547 51.3 1/4 - -
第16回参議院議員通常選挙 1992年7月26日 宮城県選挙区 自由民主党 380,249 48.5 1/4 - -
第18回参議院議員通常選挙 1998年7月12日 宮城県選挙区 自由民主党 132,070 14.0 3/9 - -
当選回数4回 (参議院議員4)

脚注

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公職
先代
鈴木省吾
  法務大臣
第45代:1986年 - 1987年
次代
林田悠紀夫
議会
先代
中村太郎
  参議院予算委員長
1992年 - 1993年
次代
井上吉夫
先代
斎藤十朗
  参議院議院運営委員長
1983年 - 1986年
次代
嶋崎均
先代
林迶
  参議院内閣委員長
1981年 - 1982年
次代
坂野重信
先代
村松哲治
  宮城県議会議長
第15代:1973年 - 1975年
次代
木村喜代助
党職
先代
斎藤十朗
自由民主党参院議員会長
第19代 : 1995年 - 1996年
次代
坂野重信