遠藤未希

日本の地方公務員。東日本大震災発生時に殉職

遠藤 未希(えんどう みき、1986年7月18日[1] - 2011年3月11日) は、日本地方公務員宮城県南三陸町職員。東日本大震災発生時に、持ち場である南三陸町防災対策庁舎において地域住民に対して防災無線で避難を呼びかけ続け、庁舎が津波にのまれた際に殉職した。宮城県本吉郡志津川町(現・南三陸町)出身[2]

えんどう みき

遠藤 未希
生誕 (1986-07-18) 1986年7月18日
宮城県本吉郡志津川町
死没 (2011-03-11) 2011年3月11日(24歳没)
宮城県南三陸町
遺体発見 宮城県志津川湾
国籍 日本の旗 日本
職業 南三陸町危機管理課職員
著名な実績 東日本大震災で自己の犠牲を顧みず地域住民に避難を呼びかけ続けた
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経歴

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遠藤は宮城県志津川高等学校を経て[1]、介護の仕事を志して仙台市内の介護専門学校に入学したが[3]、母親の勧めもあって地元の宮城県南三陸町役場に就職した[4]

旧志津川町は頻繁に津波被害に遭っていたことから防災への関心は高く、2005年10月に合併して南三陸町となった後、危機管理課が新設されており[2]、遠藤は勤続4年目の2010年4月に、この危機管理課に配属された[4]。彼女は震災の犠牲となるまで、4年間役場に勤めており、震災の当時は24歳であった[5]

2010年7月17日、専門学校で知り合った同年代の男性と入籍した[6][7]。両親の反対を押し切り、男性が婿養子となることを条件での結婚であった[6]。2011年9月に結婚式を挙げる予定であった[7]

東日本大震災

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南三陸町 防災対策庁舎跡

2011年3月11日、 東日本大震災発生時に、遠藤はいち早く、持ち場である南三陸町防災対策庁舎の2階で防災無線を使用し、防災無線で地域に避難を呼びかけ続け、自身は津波の犠牲となった[8]

庁舎の屋上に避難した約40人のうち、屋上にあったアンテナにしがみついて生存したのは佐藤仁町長らわずか11人であった[9]。遠藤は自らの命を犠牲として多くの命を救ったとし、多くの日本のニュースで賞賛された。 遠藤の遺体は宮城県志津川湾で、2011年4月23日に捜索隊によって発見された[10][11]。5月2日、DNA型鑑定で最終的に遠藤本人の遺体と断定された[12]

3階建ての庁舎は倒壊は免れたが、構造物の大部分は押し流され、鉄骨のみが残っていた[13][14]。庁舎の写真は、建物が屋根まで完全に浸水したことを示しており、一部の人々は屋上にあるアンテナにしがみついて生存した[15]

震災後

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2011年5月、台湾の企業3社より宮城県内沿岸4地区へ、消防車救急車が寄贈され、消防車は遠藤の名をとって「未希号」のプレートが掲げられた[16]

震災から半年後、当時の内閣総理大臣である野田佳彦が国会で行った所信表明演説に於いて遠藤を引き合いに出して、「この国難のただ中を生きる私たちが、決して、忘れてはならないものがあります。それは、大震災の絶望の中で示された日本人の気高き精神です」「自らの命さえ顧みず、使命感を貫き」「身をもって示した、危機の中で『公』に尽くす覚悟」と称えた[17]。翌2012年には埼玉県の公立の小中高校で使われる道徳の教材に「天使の声」と題して、使命感や社会へ貢献する心を教える物語として掲載された[17]

しかし野田の演説に対しては、遠藤の父により「尽力した職員はたくさんいるのに、どうして娘だけ名前を挙げるのか」と疑問の声があった[17]。道徳の教科書にしてもインターネット上では違和感の声があり、「『予備電源とJ-アラート自動放送がついた防災無線を装備しましょう』という結論にはなりません」などの意見もあった他[17]、震災からわずか1年後に発行することについて「そっとしておいてほしいというのがご遺族の気持ち。表に出してしまってもいいのか」「ご遺族や関係者の許可がとれるだろうか」といった懸念の声もあった[18]

震災に遭った防災対策庁舎は、遠藤の母が「解体されると、津波の高さが分かる物が無くなり、震災が風化する」と憂慮していたところ、宮城県が震災20年後の2031年3月まで同庁舎を所有し、管理する「県有化」を提案し、南三陸町は当面「震災遺構」として保存することで合意した[19]

震災から3年後、彼女の両親は彼女のことを語り継ぐための場として民宿を始める。民宿の名は彼女の名をとり、「未希の家」と名付けられた[5]

脚注

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  1. ^ a b 遠藤 2014, pp. 51–54
  2. ^ a b 仲村和代「「また会えるから」そう言っていた友の右手が離れた。東日本大震災」『朝日新聞朝日新聞社、2011年4月11日、東京朝刊、19面。
  3. ^ 水野良将「東日本大震災1カ月 住民救った職責尊く 宮城」『河北新報』2011年4月12日。
  4. ^ a b 「東日本大震災「避難して」最後まで防災放送 24歳女性、いまだ安否不明」『産経新聞産経新聞社、2011年3月30日、東京朝刊、23面。
  5. ^ a b あなたがいない8年”. NHK生活情報ブログ. 2020年6月28日閲覧。
  6. ^ a b 遠藤 2014, pp. 67–68
  7. ^ a b 遠藤 2014, p. 83
  8. ^ Winchester, Simon (2018). Exactly: How Precision Engineers Created the Modern World (Hardback). London: William Collins. pp. 323-324. ISBN 978-0-00-824176-6 
  9. ^ Nishiyama, George (August 26, 2011). “Japan Town Divided Over Tsunami Monument”. Wall Street Journal. May 28, 2020閲覧。
  10. ^ Jerry (2012年9月29日). “遠藤未希/Miki Endo, the future's hope in 南三陸町/Minamisanriku-cho, Miyagi, Japan”. 2017年9月10日時点のオリジナルよりアーカイブ2019年12月28日閲覧。
  11. ^ Folger, Tim (February 2012). “The Calm before the Wave”. National Geographic. 2019年12月28日時点のオリジナルよりアーカイブ2019年12月28日閲覧。 “In Minamisanriku the killed or missing number about 900 of 17,700 inhabitants, including Miki Endo, whose body was not found until April 23.”
  12. ^ 石崎慶一「「命」かけて…避難呼びかけ 津波にのまれた女性職員、遺体で発見」『産経新聞産経新聞社、2011年5月3日、東京朝刊、20面。
  13. ^ “Saitama to teach about Miyagi's tsunami 'angel'”. Japan Times. Jiji Press: p. 2. (2012年1月30日) 
  14. ^ Jervey, Ben (2011年3月17日). “Heroes: Hear the Voice of the Heroic Young Woman Who Saved Thousands of Lives”. Good Worldwide. 2016年5月27日時点のオリジナルよりアーカイブ2020年6月20日閲覧。
  15. ^ 南三陸町津波動画” (Japanese). 2011年4月23日閲覧。
  16. ^ 台湾から被災地へ消防車寄贈「未希号」多賀城消防署に配備” (PDF). たがじょう見聞憶. 多賀城市役所 (2014年3月29日). 2020年7月11日閲覧。
  17. ^ a b c d 加藤拓「「特攻」のメカニズム 帰還者の伝言 犠牲を美化せず教訓に」『中日新聞中日新聞社、2019年5月26日、朝刊、4面。
  18. ^ 「大震災の体験集め「心の絆」生きた道徳資料集に全国から反響─埼玉県教委」『内外教育』第6173号、時事通信社、2012年6月19日、NCID AN00363125 
  19. ^ 村瀬達男「支局長からの手紙「未希の家」と震災遺構」『毎日新聞毎日新聞社、2016年9月26日、地方版 高知、26面。

参考文献

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外部リンク

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