遠山友寿
遠山 友寿(とおやま ともひさ)は、美濃苗木藩の第11代藩主。
中津川市苗木遠山史料館所蔵 | |
時代 | 江戸時代後期 |
生誕 | 天明6年11月25日(1787年1月14日) |
死没 | 天保9年11月21日(1839年1月6日) |
改名 | 左吉→友寿 |
戒名 | 聖諦寺殿前濃州大守宗嶽道猶居士 |
墓所 | 岐阜県中津川市苗木の遠山家廟所 |
官位 | 従五位下・刑部少輔・美濃守 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家斉→家慶 |
藩 | 美濃苗木藩主 |
氏族 | 苗木遠山氏 |
父母 | 父:遠山友福、養父:遠山友随、母:直 |
兄弟 | 養子:友福、友寿 [1] |
妻 | 正室:琴(京極高中の養女)、継室:栄綱院 (岡部長教の娘)・於由賀 |
子 | 三男:友禄、加藤友訓、五男: 織田長易、久貝正章 |
略歴
編集天明6年11月25日(1787年1月14日)第9代藩主・遠山友清の長男の遠山友福の長男として江戸で生まれたが、母の直は、友寿を出産した翌日に没した[2]。
天明7年(1787年)4月晦日、第10代藩主・友随の養嗣子となっていた実父の友福が早世した。
そのため、天明8年(1788年)4月22日、祖父の友随の嫡孫となった。
寛政4年(1792年)12月21日、祖父の友随の隠居により、7歳で家督を相続したが、幼少のために肥後人吉藩主の相良長寛の後見を受けた。
寛政12年(1800年)、4月9日に江戸を出発し、4月17日に初めて苗木城へ入城した。
享和元年(1801年)、鍛冶橋御門番・駿府加番を勤めて、12月16日に、従五位下・刑部少輔に叙任された。
藩士に重役心得を申し渡し、指導者の心構えと指導の重要性を強調した。
文化4年(1807年)、乗馬仕立之主意を出し、先代藩主の友随の諸士心得の徹底を図った。
文化11年(1814年)、美濃守に改めた。
同年3月、藩財政の窮乏に近江国信楽代官取扱いの宿場助成貸付金3千両の借用を、領内33ヶ村を引当として申込んで800両の融通を受けるとともに倹約令を繰返し、借上や貸下げ、さらには家臣の統率強化にも務めた。
文政2年9月17日(1819年)、継室の於由賀が、後に苗木藩主となった友禄を生んだ。
文政13年7月(1830年)、衣類の倹約既定の申請書が側向の者に出された。
天保3年(1832年)12月、倹約令で家中借上米が、翌年から3年間実施されたが、藩財政は好転の兆が見られず、借米期間は延長に延長を重ねた。
天保9年(1838年)11月21日、53歳で没し、三男の友禄が苗木藩主を嗣いだ。
参考文献
編集- 『苗木藩政史研究』 第一章 苗木藩の成立 第一節 苗木藩の成立事情 二 歴代藩主の素描 十一代美濃守友寿 p15~p16 後藤時男 中津川市 1982年
- 『中津川市史 中巻Ⅰ』 第五編 近世(一) 第一章 支配体制と村のしくみ 第三節 領主の略系譜 一 遠山家 遠山美濃守友寿 p50 中津川市 1988年
- 『恵那郡史』 第七篇 江戸時代 (近世「領主時代」) 第二十八章 諸藩分治 其二 苗木藩距江戸 遠山友寿 p237 恵那郡教育会 1926年
- 『福岡町史 通史編 下巻』 第五部 近世 第一章 近世における苗木藩の概観 第一節 苗木藩成立と領村支配 苗木遠山氏と藩主 p1~p8 福岡町 1992年