道嶋御楯
道嶋 御楯(みちしま の みたて、生没年不詳)は、平安時代初期の武官。姓は宿禰。同族に道嶋嶋足や道嶋大楯がいるが親族関係は不明。官位は外従五位下・陸奥鎮守副将軍。
経歴
編集延暦8年(789年)巣伏の戦いにおいて丈部善理や出雲諸上とともに別将を務め、諸上とともに敗走する兵を率いて帰還した[1]。先の蝦夷征討(延暦20年次)もしくは次の征夷にあたって鎮守軍監を務め、延暦21年(802年)陸奥国大国造に任ぜられている(この時の位階は外従五位下)。延暦23年(804年)桓武朝における第四次蝦夷征討が計画されると、征夷大将軍・坂上田村麻呂に次いで、百済王教雲や佐伯社屋とともに征夷副将軍として名を連ねる。しかし、翌延暦24年(805年)の徳政相論により遠征は中止となった[2]。
陸奥国大国造
編集朝廷に協力した者に与えられる名誉職という見方もあるが、先の大国造である嶋足の時は、彼の奏請で陸奥国各郡の豪族に大量の賜姓が行われている。国造の権限に賜姓の奏請があったと考えられ、またそれが嶋足の本拠地である牡鹿郡に留まらないことから、広範な影響力を有していたことが分かる。なお、御楯の奏請かは不明だが、延暦16年(797年)に広範な賜姓が行われている。
官歴
編集『日本後紀』による。