近藤正慎
近藤 正慎(こんどう しょうしん、文化13年2月30日(1816年3月28日)[1] - 安政5年10月23日(1858年11月28日))は、江戸時代末期(幕末)の尊王攘夷運動家。清水寺寺侍。本姓は栗山、名は義重、通称は仲。幼名は金弥、字は向月[1]。
丹波国桑田郡亀山藩山本村中条(後の京都府南桑田郡篠村山本中条、現在の亀岡市篠町)で、栗山瀬平の三男として生まれる。文政10年(1827年)、京都清水寺成就院で出家。文政12年(1829年)から天保12年(1841年)まで、成就院末の金蔵院の住職を務めた[1]。その後、本山派修験道に入り、義光院兵部と改名して諸国を巡歴した。天保14年(1843年)に還俗し、丹波亀山の近藤市左衛門の養子となり、成就院の寺侍を務めた[1]。
兄弟僧であった月照を支援し尊攘運動に身を投ずる。
安政5年(1858年)10月3日、安政の大獄に連座して捕縛され、六角獄舎において、月照の行方について拷問を交えて問われるが全く白状せず、十数日余り断食した後、獄中で舌を噛み切って壁に頭を打ちつけて自害した[2][1]。享年43。1903年(明治36年)、従五位に列せられた[3]。