辰斎年秀
明治時代の浮世絵師
来歴
編集月岡芳年または中山年次の門人。『東洋絵画共進会出品目録』によれば第六区出品作「淡彩農業」と「淡彩虎」の作者として「雑派 号年秀」とあり、この年秀は本名平岡光太郎、横浜翁町に住み、同展開催の明治19年(1888年)には27歳だったという[2]。これが辰斎年秀と同一人とされている。作は明治27年(1894年)とその翌年に版行された日清戦争の錦絵が残る[3][4]。
作品
編集脚注
編集- ^ 『浮世絵人名辞典』には安政6年の生れとあるが、明治19年4月刊行の『東洋絵画共進会出品目録』には「二十七年七月」(27歳と7ヶ月)とあり、これによって逆算すれば万延元年(1860年)頃の生れとなる。
- ^ 滝川 1888, p. 77-78.
- ^ a b 太田記念美術館 1990, pp. 75–81.
- ^ a b “「牛荘附近激戦之図」辰斎年英/画” (1895年1月). 2018年9月30日閲覧。 3枚続、36×24cm。請求記号:EE721.8シン、資料番号:1114234733。なお画面の右下に「辰齋年秀」と記してあることから、典拠で作者を「年英」としているのは誤植か。
参考文献
編集- 「国芳とその一門関係年譜」『歌川国芳とその一門展』歌川国芳(画)、太田記念美術館(編)、太田記念美術館、1990年、75-81頁。 NCID BN09628624。
- 桑原羊次郎『浮世絵師人名辞書』教文館、松江、1923年、27頁。doi:10.11501/1182551。全国書誌番号:3041603。 国立国会図書館デジタルコレクションに本文あり。37コマ目。
- 『浮世絵人名辞典』清水澄(編)(再版)、美術倶楽部鑑定部、1978年、[要ページ番号]頁。 NCID BN13719530。 初版:昭和29(1954)年10月刊。
- 『東洋絵画共進会出品目録』滝川守朗(編)、今古堂、東京、1888年4月、77-78頁。doi:10.11501/851260。全国書誌番号:40070591。 国立国会図書館デジタルコレクションに本文あり。42コマ目。