足立基助
足立 基助(あだち もとすけ)は、戦国時代から安土桃山時代の武将。丹波国の国人。丹波国氷上郡山垣城[3]主。
時代 | 戦国時代 - 安土桃山時代 |
---|---|
生誕 | 不明 |
死没 | 天正7年(1579年)5月 |
別名 | 弥三郎(通称)[1][2] |
氏族 | 足立氏 |
父母 | 足立基晴(基清)[2] |
兄弟 | 基助、基時[2] |
子 | 基堅[2] |
生涯
編集足立氏は源家4代に仕え[4]、武蔵国足立郡を領した藤原遠元を祖とする[5]。承元3年(1209年)に、遠元の孫・遠政が氷上郡佐治庄の地頭職として来住し、山垣城を築いたとされる[6]。足立氏は南北朝時代中期に大いに勢力を伸ばしたが、戦国期末には赤井氏や芦田氏に押され、荻野直正の頃にはその指揮下へと入っていた[7]。
元亀2年(1571年)11月、山垣城は山名祐豊の家臣・山名豊直に攻められたが、赤井忠家・荻野直正の来援により撃退した[8]。この時の山垣城主は足立基晴とされる[9]。
天正7年(1579年)5月[10]、織田信長の部将・羽柴秀長の攻撃を受け[11]、足立光永の守る遠坂城とともに山垣城は落城[10]。城主の基助は討死した[12]。
370年にわたる拠点を失った足立氏は離散したが、故郷に戻った子孫は栄え、氷上郡(現在の丹波市)で最も人口の多い名字が足立姓であるといわれる[7]。
脚注
編集- ^ 芦田ほか 1973, p. 487; 宮野 1989, p. 276; 阿部 & 西村 1990, p. 47.
- ^ a b c d 丹波史談会 編『氷上郡志 上巻』丹波史談会事務所、1927年、465頁 。
- ^ 兵庫県丹波市青垣町山垣に所在 (高橋 2020, p. 179)。
- ^ 「足立遠元」『朝日日本歴史人物事典』 。コトバンクより2021年12月6日閲覧。
- ^ 芦田ほか 1973, p. 485; 「角川日本地名大辞典」編纂委員会 1988, p. 1522.
- ^ 芦田ほか 1973, pp. 485–486, 488; 「角川日本地名大辞典」編纂委員会 1988, p. 1522.
- ^ a b 芦田ほか 1973, p. 487.
- ^ 高橋 2020, pp. 22, 174–175.
- ^ 宮野 1989, p. 276; 高橋 2020, p. 177.
- ^ a b 宮野 1989, pp. 276–277.
- ^ 「角川日本地名大辞典」編纂委員会 1988, p. 1522; 阿部 & 西村 1990, p. 47.
- ^ 阿部 & 西村 1990, p. 47.
参考文献
編集- 芦田確次; 青木俊夫; 村上完二; 船越昌『丹波戦国史』歴史図書社、1973年。全国書誌番号:73010861。
- 阿部猛; 西村圭子 編『戦国人名事典 コンパクト版』新人物往来社、1990年。ISBN 4-404-01752-9。
- 「角川日本地名大辞典」編纂委員会 編『角川日本地名大辞典 28 兵庫県』角川書店、1988年。ISBN 4-04-001280-1。
- 高橋成計『明智光秀を破った「丹波の赤鬼」―荻野直正と城郭―』神戸新聞総合出版センター、2020年。ISBN 978-4-343-01061-2。
- 宮野宣康 著「兵庫県」、戦国合戦史研究会 編『戦国合戦大事典(第六巻)京都・兵庫・岡山』新人物往来社、1989年。ISBN 4-404-01588-7。
関連項目
編集- 蘆田国住 - 足立氏と同時期に滅んだ丹波国氷上郡の国人。