趙 秉鈞(ちょう へいきん)は、清末民初政治家袁世凱の腹心的存在で、北京政府国務総理をつとめた。智庵

趙秉鈞
プロフィール
出生: 1859年2月3日
咸豊9年正月初1日)
死去: (1914-02-27) 1914年2月27日(55歳没)
中華民国の旗 中華民国天津市
出身地: 清の旗 河南省汝州
職業: 政治家
各種表記
繁体字 趙秉鈞
簡体字 赵秉钧
拼音 Zhào Bǐngjūn
ラテン字 Chao Ping-chün
注音二式 Jàu Bǐngjiūn
和名表記: ちょう へいきん
発音転記: ジャオ ビンジュン
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事跡

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警察機関の創始者

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1878年光緒4年)、左宗棠率いる楚軍に加わり、新疆に赴任した。1883年(光緒9年)、イリで勘画中俄辺界弁事員に任命される。1889年(光緒15年)、典史として直隷省に赴任している。以後各職を歴任して、1899年(光緒25年)に直隷保甲局総弁として巡防営を率いた。翌年の義和団の乱では、義和団の鎮圧に従事し、直隷総督となった李鴻章の下で知州として補用された。

1902年(光緒28年)、趙秉鈞は保定巡警局総弁に任命され、まもなく知府兼塩運使相当官となる。この時、袁世凱の命を受けた趙は、中国に駐在していた日本人警官と協力して近代的な警察制度の樹立に尽力した。趙は、保定に警務学堂を創設し、さらに天津南段巡警局総弁に異動すると、天津にも巡警学堂を設立した。翌年、両学堂を合併して、北洋巡警学堂を新設している。

1905年(光緒31年)、清朝に巡警部が設立されると、袁世凱の推薦により趙秉鈞が巡警部右侍郎に任命された。これにより、趙は巡警部の実権を掌握した。さらに、袁のために巡警部を一種の特務機関として活動させている。1909年宣統元年)1月に袁が一時失脚すると、まもなく趙も罷免され、再起を図ることになった。1911年(宣統3年)10月の辛亥革命勃発時に袁が内閣を組織すると、趙は民政部大臣に任命された。

宋教仁暗殺と突然の最期

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中華民国成立後の1912年民国元年)3月、唐紹儀内閣が成立すると、趙秉鈞は内務総長に任命された。しかし、趙は袁の命を受けて反唐運動を展開し、唐を辞職に追い込んでいる。続く陸徴祥内閣でも、趙は内務総長に任命された。同年8月、陸が参議院から弾劾されて辞職すると、趙が代理国務総理となる。9月、正式に国務総理となった(内務総長も兼任)。

当初の趙秉鈞は、中国同盟会から改組された国民党への融和姿勢を示し、比較的順調に内閣を組織することができた。しかし、次第に国民党への対決姿勢を示すようになる。1913年(民国2年)に国民党が選挙に勝利すると、趙は、袁世凱の意を受けて宋教仁暗殺を秘密裏に画策し、そして3月に決行した。しかし、やがて内情が漏れたため、世論の弾劾を受ける形で、同年7月に国務総理を辞職した。その後、歩軍統領兼管京師巡警、北京警備地域司令官などを歴任している。12月には直隷都督に任命された(翌年2月に民政長も兼任)。

1914年(民国3年)2月27日、趙秉鈞は、天津の督署内で急死した。享年56(満55歳)。この死については、袁世凱が宋教仁暗殺の証拠隠滅を図っての毒殺であるとの説も広く信じられているが、確証はない。ただ、趙配下の陸錦による袁宛の電文でも、急性症状による苦悶の果てに、大量出血等により死亡したことが報告されており[1]、少なくとも異状死であったことだけは確かである。1915年(民国4年)12月に袁が皇帝に即位すると、趙は一等忠襄公を追贈された。

  1. ^ 陸錦致袁世凱電」1914年2月27日(李宗一「趙秉鈞」掲載)

参考文献

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  • 李宗一「趙秉鈞」中国社会科学院近代史研究所『民国人物伝 第2巻』中華書局、1980年。 
  • 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1 


 

先代
桂春
民政部大臣
1911年 - 1912年
次代
-

  中華民国北京政府

先代
(創設)
内務総長
1912年3月 - 1913年7月
(1913年5月より言敦源代理)
次代
王治馨
先代
熊希齢
財政総長(代理)
1912年7月
次代
周学熙
先代
陸徴祥
内閣総理
1912年9月 - 1913年7月
(辞任後、朱啓鈐暫定代理)
次代
段祺瑞
先代
江朝宗
歩軍統領
1913年7月 - 12月
次代
江朝宗
先代
馮国璋
直隷都督(署理)
1913年12月 - 1914年2月
次代
朱家宝