光宗 (宋)
(趙惇から転送)
光宗 趙惇 | |
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南宋 | |
第3代皇帝 | |
王朝 | 南宋 |
在位期間 |
淳熙16年2月2日 - 紹熙5年7月5日[1] (1189年2月18日 - 1194年7月24日) |
都城 | 臨安 |
姓・諱 | 趙惇 |
諡号 | 循道憲仁明功茂徳温文順武聖哲慈孝皇帝 |
廟号 | 光宗 |
生年 |
紹興17年9月4日 (1147年9月30日) |
没年 |
慶元6年8月8日 (1200年9月17日) |
父 | 孝宗 |
母 | 成穆皇后郭氏 |
后妃 | 慈懿皇后李氏 |
陵墓 | 永崇陵 |
年号 | 紹熙 : 1190年 - 1194年 |
子 | 趙拡(寧宗) |
生涯
編集紹興17年(1147年)、当時に普安郡王であった孝宗と郭氏の間に三男として生まれる。紹興32年(1162年)、父が即位すると恭王に封ぜられた。乾道3年(1167年)、長兄の荘文太子趙愭が死去した後、次兄の趙愷と後継をめぐって争ったが、皇太后呉氏の支持に支えられ、乾道7年(1171年)に皇太子に冊立され臨安府尹を務めた。
淳熙14年(1187年)11月、孝宗の指示により国務の決裁に参与し始め、淳熙16年(1189年)に譲位を受け、皇帝に即位する。しかし、朝廷の実権は太上皇となった孝宗が掌握していた。また、光宗も病弱な上に暗愚であったため、皇后李氏による専横を招いたほか、太上皇と立太子を巡る対立が原因で不和になった。
紹熙5年(1194年)、孝宗の崩御に際して服喪に臨まないまま、心疾(精神疾患)まで発病しながら政務も顧みることが不可能になった。趙汝愚・韓侂冑などの大臣らは太皇太后呉氏と協力して光宗を退位させ、寧宗が擁立された。以後は一切の政治と離れ、居所を寿康宮へ移して隠居し、慶元6年(1200年)8月に54歳で崩御。永崇陵に葬られたが、2カ月先に死亡した李皇后とは合葬されなかった[2]。