趙 宏偉(ちょう こうい、1243年 - 1326年)は、モンゴル帝国大元ウルス)に仕えた漢人将軍の一人。字は子英。許州長社県の出身。

生涯

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趙宏偉は1276年(至元13年)のモンゴル軍による南宋領侵攻のさなか、モンゴル軍の元帥スルドタイの軍を訪れ臨江軍を平定する方略を書を以て示し、採用された人物であった。吉州に至った時には南宋の将の管忠節・路分の鄒超らが出戦してきたが、趙宏偉はこれを破って北に20余里り追撃し、さらに城を守る周天驥を投降させるに至った。スルドタイは趙宏偉の功績を評価し、銀30両を与えるとともに、吉州参佐官の地位に任じた。その後、吉州の民が反乱を起こした時には、伏兵や火攻めを用いて反乱軍を一掃し、吉州の統治を安定させるに至った[1]

また、南宋の廂禁軍総管の王昌・勇敢軍総管の張雲らが五営軍とともに反乱を起こした際には、趙宏偉が張雲を夜襲して斬首し、捕虜500人を得て反乱を鎮圧する功績を挙げた。スルドタイは捕虜を処刑しようとしたが、趙宏偉が説得してこれをやめさせたという。この功績によって太和県尹の地位を授けられている。その後、南宋の復興を目指す文天祥が羅開礼・葉良臣らとともに吉州・贛州・臨江軍を奪還せんと行動を起こしたが、趙宏偉は葉良臣を斬り、羅開礼を捕虜とすることで文天祥の意図をくじいた。 1278年(至元15年)には金符を下賜されて瓜洲河渡提挙の地位に移り、1280年(至元17年)には衡州路総管府治中の地位に改められた。このころ、衡州路では盗賊が出没していたが、趙宏偉が屯田を進めて食料不足を解消していったため、盗賊に属していた者たちも農業に戻り衡州路の治安は安定したという[2]

1301年(大徳5年)には董士恒の推薦により、僉浙西道粛政廉訪司事に起用された。このころ、鎮江府で旱魃が起こり、さらに大風のため潤州常州江陰軍が打撃を受ける中、趙宏偉は罪を受けることを覚悟の上で食料庫を独断で開放し多くの民の命を救ったという。その後江南行台都事の地位に遷り、1307年(大徳11年)にも江南で飢饉が起こったが、この時も趙宏偉は再び罪に問われることを覚悟で食糧を振るまい民を救ったという[3]

1309年(至大2年)には内台都事に任じられ、このころ皇太子であったアユルバルワダ(後の仁宗ブヤント・カアン)が趙宏偉の名声を聞き、厚く遇したという。アユルバルワダは趙宏偉を常に字で呼ぶほど厚遇し、趙宏偉が浙東道粛政廉訪副使に任じられて中央を離れることになると、餞別に幣帛を与えたという。浙東に赴任中は朱熹の学問を学ぶ許謙に師事し、その後は江南行台治書侍御史に転任した。1313年(皇慶2年)に一度職を辞し、1316年(延祐3年)に再び福建道粛政廉訪使に任じられたが、病を理由に再び職を退いた。その後、1326年(泰定3年)に84歳にして死去した[4]

息子には天水郡侯に追封された趙思恭と、教授となった趙思敬らがいる[5]

脚注

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  1. ^ 『元史』巻166列伝53趙宏偉伝,「趙宏偉字子英、甘陵人、後徙潁川。至元十三年、国兵攻宋、宏偉以書謁元帥宋都䚟于軍中、奇之、俾以兵略地臨江。至吉州、宋主将管忠節・路分鄒超悉衆出戦、宏偉敗之、追北二十餘里、薄其城、示以禍福、知州周天驥以城降。宋都䚟嘉宏偉有功、賞銀三十両、署為吉州参佐官。吉民有為乱者、宏偉設伏橋下、以火攻之、賊戦退走、伏発、衆蹂践幾尽、乗勝擣其巣穴、餘党悉出拒戦、宏偉旋兵襲其背、斬其渠魁、一州遂安」
  2. ^ 『元史』巻166列伝53趙宏偉伝,「宋廂禁軍総管王昌・勇敢軍総管張雲誘新附五営軍為乱。事覚、昌就擒。宏偉夜襲雲、斬首以献、俘其党五百人。宋都䚟欲尽誅之、宏偉曰『此属詿誤、非得已也、今悉就誅、何以安反側』。衆得免死。以功授太和県尹。宋相文天祥署其将羅開礼・葉良臣、集衆謀復吉・贛・臨江、宏偉斬良臣、俘開礼、釈其餘衆。十五年、以功賜金符、遷瓜洲河渡提挙。十七年、改衡州路総管府治中。群盗出没其境、宏偉計其地、興屯田、民既足食、盗亦為農、郡遂寧謐」
  3. ^ 『元史』巻166列伝53趙宏偉伝,「大徳五年、用中丞董士恒薦、起僉浙西道粛政廉訪司事。鎮江旱、蠲民租九万餘石。吏畏飛語、復徴于民、民無所出、行台令宏偉核実、卒蠲之。大風海溢、潤・常・江陰等州廬舎多蕩没、民乏食。宏偉将発廩以賑、有司以未得報為辞、宏偉曰『民旦暮饑、擅発有罪、我先坐』。遂発之、全活者十餘万。遷江南行台都事。十一年、江南大饑、宏偉請以贓罰銭賑之、民頼以生」
  4. ^ 『元史』巻166列伝53趙宏偉伝,「至大二年、召為内台都事。仁宗在東宮時、聞其名、遇之甚厚、常以字呼之。及出為浙東廉訪副使、陛辞之日、仁宗出幣帛、俾択所欲者即賜之。宏偉至浙東、聞郡人許謙得朱熹道学之伝、延致為師、於是人知向慕。未幾、擢江南行台治書侍御史。皇慶二年、致仕。延祐三年、復起為福建道粛政廉訪使。未幾、以疾辞。泰定三年、卒、年八十四、贈嘉議大夫・礼部尚書・上軽車都尉、追封天水郡侯、諡貞献」
  5. ^ 『元史』巻166列伝53趙宏偉伝,「大子思恭、追封天水郡侯。思敬、以処士徴為教授。趙璉別有伝」

参考文献

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  • 元史』巻166列伝53趙宏偉伝
  • 新元史』巻165列伝62趙宏偉伝