走井 盛秀(はしりい もりひで)は、戦国時代武将。官途は備前守

 
走井 盛秀
時代 戦国時代
生誕 永正11年(1514年
死没 不明
官位 備前守
主君 遊佐順盛遊佐長教遊佐太藤
氏族 走井氏
父母 走井康秀
於徳丸[1]
男子、男子、慶秀
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概要

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走井氏河内国茨田郡走井荘の国人で、畠山氏の家臣で河内国守護代を務めた遊佐氏の被官(内衆)であった家。「観心寺文書」には、永正年間(1504年1521年)に走井康秀の名前が見える[2]

天文20年(1551年)5月には河内守護代遊佐長教が暗殺され、河内国支配の主導権を巡り、萱振氏萱振賢継)、鷹山氏鷹山弘頼)、野尻氏中小路氏田川氏吉益氏が粛清されているが[3][4]、これは盛秀と安見宗房丹下盛知が協力して行ったものであった[5]。3人は遊佐太藤を長教の後継者として擁立した。なお、安見宗房が河内守護代となったとする俗説があるが、これは史料的に証明されておらず、実際の家格は盛秀・盛知と同格かそれ以下であった[6]。また、同時期に子供2人が死去したという[7]

その後も安見宗房と協力して、河内国高屋城を拠点として河内国を三好長慶と争った[8]

脚注

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注釈

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出典

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  1. ^ 兼右卿記』天文20年10月14日条
  2. ^ 弓倉弘年「中世後期畿内近国守護の研究[1]
  3. ^ 『言継卿記』天文21年2月21日条
  4. ^ 「良尊一筆書写大般若経奥書集」
  5. ^ 弓倉弘年「中世後期畿内近国守護の研究[2]
  6. ^ 弓倉弘年「中世後期畿内近国守護の研究[3]
  7. ^ 兼右卿記』天文20年10月14日条
  8. ^ 弓倉弘年「中世後期畿内近国守護の研究[4]

関連項目

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