赤松祐高
赤松 祐高(あかまつ すけたか)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将。
時代 | 安土桃山時代 - 江戸時代初期 |
---|---|
生誕 | 永禄2年(1559年) |
死没 | 慶長20年5月28日(1615年6月24日) |
官位 | 伊豆守 |
主君 | 豊臣秀吉、秀頼 |
氏族 | 赤松氏 |
父母 | 赤松政秀 |
兄弟 | 広貞、斎村政広、祐高、さこの方 |
子 | 祐則 |
生涯
編集永禄2年(1559年)、赤松政秀の子として誕生。天正5年(1577年)、中国地方に侵攻してきた織田氏の家臣・羽柴秀吉に兄・斎村政広と共に降伏する。以後も秀吉に従い、半田山家鼻城1万石を領す。慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いでは兄同様、始め石田三成の西軍に与するが、徳川方の東軍に寝返る。兄政広の切腹後に流浪した。
大坂の陣では浪人衆として、豊臣秀頼に仕え大坂城に篭城。慶長20年(1615年)の大坂夏の陣後、播磨国に逃れて播磨網干大覚寺に篭るが、池田利隆の兵に囲まれたため、衆兵を救わんとして切腹した。享年57。