赤崎義則
赤崎 義則(あかさき よしのり[1]、あかざき よしのり[2]、1927年(昭和2年)9月11日[3][4] - 2019年(平成31年)4月12日[1])は、日本の政治家。鹿児島市長(第19代、5期)[5]。鹿児島市助役(第24代)[6]。位階は従四位。
赤崎 義則 あかさき よしのり | |
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生年月日 | 1927年9月11日 |
出生地 | 日本鹿児島県 |
没年月日 | 2019年4月12日(91歳没) |
死没地 | 鹿児島県鹿児島市 |
出身校 | 鹿児島農林専門学校(現在の鹿児島大学農学部) |
前職 | 地方公務員(鹿児島市助役) |
所属政党 | 無所属 |
称号 |
鹿児島市名誉市民 長沙市名誉市民 |
第19代 鹿児島市長 | |
当選回数 | 5回 |
在任期間 | 1984年12月 - 2004年12月 |
来歴
編集鹿児島県日置郡東市来村(後に東市来町、日置市)出身[2][7][8]。東市来町の小学校から[7]、旧制鹿児島県立伊集院中学校(現鹿児島県立伊集院高等学校)を経て[9]、陸軍予科士官学校在籍中に敗戦により学校解散となり復員[10]。1948年3月鹿児島農林専門学校農学科(現鹿児島大学農学部)卒業[3]。1949年2月鹿児島市役所に入職[3]。市役所では農林部経営課長(1965年11月)、農林部指導課長、財政部管財課長(1969年9月)、総務局行政部職員課長(1973年7月)、総務局行政部長(1975年7月)、総務局長(1977年7月)を経て、1984年3月助役に就任した[3][4][11]。
同年12月に前任の山之口安秀が病気を理由に辞職したことにより行われた、鹿児島市長選挙に立候補して初当選[11]。以来5期務めた。任期中の1993年(平成5年)には、鹿児島市を中心に甚大な被害をもたらした平成5年8月豪雨が発生し、災害復旧・復興や石橋の移設を行い、2004年(平成16年)の市町村合併の際には周辺5町を鹿児島市に編入する際の主導的役割を担った[5]。
また、1999年(平成11年)から2001年(平成13年)の間、全国市長会会長(第23代)に就任していた[12]。
2004年の市長選には立候補せず引退した。なお、就任期間の5期20年は歴代の鹿児島市長では最長である(2015年現在)[5]。翌年2005年、旭日重光章受章[13]。
称号等
編集脚注
編集- ^ a b c “赤崎義則氏が死去 元鹿児島市長”. 日本経済新聞 (2019年4月12日). 2019年4月12日閲覧。
- ^ a b 「特集・近代河川制度100年・特別企画・私と河川」『河川』第607号、日本河川協会、1997年2月20日、40-41頁。
- ^ a b c d 『日本の歴代市長 第三巻』歴代知事編纂会、1985年5月10日、748頁
- ^ a b 『新訂 現代政治家人名事典 : 中央・地方の政治家4000人』日外アソシエーツ、2005年、6頁。
- ^ a b c 『鹿児島市史第5巻』 pp.24-25、鹿児島市、2015年
- ^ 『鹿児島市史第4巻』 p.27、鹿児島市、1990年
- ^ a b 「私の修学旅行 鹿児島県鹿児島市長 赤崎義則」『修学旅行』第39巻2号、日本修学旅行協会、1991年2月1日、2-3頁。
- ^ 「2020鹿児島市長選関連記事 戦後の歴代市長ってどんな人?」『南日本新聞 373news.com』2020年11月11日。2024年4月15日閲覧。
- ^ 陸軍予科士官学校第六十一期生会 編『第六十一期生』1971年、117頁。
- ^ 予科士官学校で久保亘と同期(『久保亘さんが語る:政治家が議会を去るとき 久保亘さんを語る:お別れのことば』(三州倶楽部、2003年)P.36)
- ^ a b 『鹿児島市史第4巻』 pp.24-25、鹿児島市、1990年
- ^ 全国市長会の概要 - 全国市長会、2015年11月24日閲覧。
- ^ 「春の叙勲 中綬章以上と在外邦人、外国人叙勲の受章者一覧」『読売新聞』2005年4月29日朝刊
- ^ 赤崎義則前鹿児島市長が死去 - MBCニュース(南日本放送)2019年4月12日
- ^ “前鹿児島市長・赤崎義則さん死去 元全国市長会長:朝日新聞デジタル”. 朝日新聞デジタル. 2019年4月12日閲覧。
- ^ “名誉市民”. 鹿児島市 (2020年4月30日). 2020年7月15日閲覧。
- ^ 長沙・鹿児島市友好交流祝賀会 - 鹿児島市日中友好協会、2015年11月24日閲覧。
- ^ 名誉市民 - 鹿児島市、2015年11月24日閲覧。
外部リンク
編集- “MBCアーカイブス あの日のふるさと 戦後の鹿児島市長④赤崎義則市長”. 南日本放送 (2020年11月26日). 2024年4月15日閲覧。