天城型巡洋戦艦
天城型巡洋戦艦(あまぎがたじゅんようせんかん)は、日本海軍が計画した八八艦隊の巡洋戦艦[16][17]。
天城型巡洋戦艦 | |
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基本情報 | |
種別 | 巡洋戦艦 |
命名基準 | 山の名 |
運用者 | 大日本帝国海軍 |
同型艦 | 天城、赤城、高雄、愛宕 |
計画数 | 4 |
前級 | 加賀型[注 1] |
次級 | 紀伊型[注 2] |
要目 (計画[14][15]) | |
常備排水量 |
計画要領:約41,000英トン 計画:41,200英トン[3] 天城完成時予定:41,188英トン[4][注 3] |
満載排水量 | 47,600(英)トン[5] |
全長 | 828 ft 0 in (252.37 m)[6][3] |
水線長 | 820 ft 0 in (249.94 m)[6] |
垂線間長 | 770 ft 0 in (234.70 m)[6] |
最大幅 |
水線上:105 ft 10+3⁄4 in (32.28 m)[3][6] 水線下:102 ft 9 in (31.32 m) |
水線幅 | 101 ft 0 in (30.78 m)[6] |
深さ | 59 ft 3 in (18.06 m)[6] |
吃水 | 31 ft 0 in (9.45 m)[6] |
ボイラー | ロ号艦本式缶[9] 重油専焼11基・同混焼8基[10] |
主機 |
天城・赤城:技本式(高圧低圧)タービン8基、4組[10] 高雄:技本式 または三菱パーソンズ式(高圧インパルス式(技本式)、低圧パーソンズ式)タービン8基、4組[10][11] 愛宕:ブラウン・カーチス式(高圧中圧低圧低圧)タービン4基[10][9] |
推進器 | 4軸 x 210rpm[10] |
出力 | 131,200shp[9][10] |
速力 | 30ノット[9][6] |
航続距離 | 約8,000カイリ / 14ノット |
燃料 |
重油タンク容量:約3,900トン 石炭庫容量:約2,500トン |
搭載能力 |
41cm砲弾 1,100発 14cm砲弾 1,920発 12cm高角砲弾 800発 61cm魚雷 24本 艦載水雷艇用45cm魚雷 5本 |
乗員 | 2,000名[要出典] |
兵装 |
45口径41cm連装砲 5基10門 50口径14cm砲 16門 45口径12cm高角砲 4門 3年式機砲[12] 61cm水上発射管 2基8門[3][13] 110cm探照灯 10基 |
装甲 |
舷側水線主甲帯:254mmVC[要目注 1] (傾斜12度[7][8]) 舷側水線後部甲帯:229mmVC 前部防御隔壁:229mmVC 後部防御隔壁:203-229mmVC バーベット:178-279mmVC 司令塔側部:254-330VC 同上部:152mmNVNC[要目注 2] 同床部:76mmNVNC 同交通筒:51-102NVNC 煙路・機械室通気口:102-203mmVC 上甲板中央部:95mmHT[要目注 3] 中甲板機関部:22-32mmHT 中甲板弾薬庫:48mmHT 中甲板中央傾斜部:70mmHT 中甲板後部:19-44mmHT 下甲板前部:51-95mmHT 水雷防御隔壁:73mmHT 水雷防御横隔壁:89mmHT |
搭載機 |
一人乗戦闘機 1機、予備1機分 観測気球 1機 滑走台(4番砲塔上) |
その他 |
650馬力水圧機 5基 300kWタービン発電機 3基 150kW内燃機関発電機 1基 30kW無線用発電機 2基 |
概要
編集日本海軍は、日露戦争における黄海海戦と日本海海戦の戦訓から、戦艦と巡洋戦艦(旧呼称装甲巡洋艦)を同じ艦隊で運用して艦隊決戦に勝利する構想を練った[18]。超弩級戦艦を自国で建造できるようになった日本は、戦艦と巡洋戦艦複数を同時に整備・建造する「八八艦隊」を立案した[19][20][注 4]。8隻の建造予定であった巡洋戦艦として、最初に計画されたのが本型である[1]。ユトランド沖海戦の戦訓を元に、レキシントン級巡洋戦艦に対抗して速力重視だった天城型巡洋戦艦も、防御力を強化した艦型となった[注 5]。 本艦型は加賀型戦艦の発展型で、艦艇類別等級では巡洋戦艦に類別されている[注 6]。 その実態は、長門型戦艦を凌駕し[26]、加賀型戦艦に匹敵する火力と防御力を持ちながら30ノットを発揮する高速戦艦であった[27][1]。ただし金剛型より約1万5,000トンも巨大な艦であるため、造船所によっては船台の延長や船渠の拡張が必要になった[注 7][注 8]。
天城型4隻(天城、赤城、高雄、愛宕)は建造途中でワシントン海軍軍縮条約のため計画中止となり[30]、巡洋戦艦としての建造は中止された[注 9]。 高雄(三菱長崎造船所)と愛宕(神戸川崎造船所)が破棄された[32][33]。天城(横須賀海軍工廠)と赤城(呉海軍工廠)は航空母艦への改装が検討されたものの[34]、後述のように天城は関東大震災で損傷する[35]。修理不能と判定され、破棄・解体された[36][注 10]。 天城の代艦として[38]、横須賀港で廃艦処分を待っていた戦艦加賀が同工廠にて空母に改造された[注 11][注 12]。
経緯
編集日本海軍はイギリス海軍からクイーン・エリザベス級戦艦(ウォースパイト)[41]の設計図を提供され、同艦型を参考に16インチ砲を搭載した新型戦艦を設計した[42]。これが長門型戦艦である[43]。 1番艦の長門は1916年(大正5年)5月12日に呉海軍工廠にて建造が発令された[44]。ところが直後にユトランド沖海戦が生起、すでに建造日程と予算が組まれていた長門型も設計を変更したが[45]、大海戦の戦訓を完全に取り入れることができなかった[44]。そこで次の大正6年度計画艦において[46]、ユトランド沖海戦の戦訓を徹底的に取り入れた加賀型戦艦[2](3号艦〈加賀〉、4号艦〈土佐〉)が建造されることになった[47][48]。加賀型の基本計画は1918年(大正7年)3月にまとまり、つづいて巡洋戦艦の設計がはじまる[26]。1919年(大正8年)3月13日、各種計画案を審議検討した結果、実質的な高速戦艦として天城型巡洋戦艦の建造が決定した[26]。なお天城型(赤城型)に匹敵する巡洋戦艦として[49]、イギリス海軍のアドミラル級巡洋戦艦(フッド)[50]、アメリカ海軍のレキシントン級(サラトガ型)が挙げられている[51][注 7]。
八四艦隊案と八六艦隊案において1917年(大正6年)に5号艦(天城)と6号艦(赤城)が[52]、1918年(大正7年)に7号艦(高雄)と8号艦(愛宕)の計4隻の建造が帝国議会で認められ[53]、残りの八八艦隊計画艦は天城型巡洋戦艦の設計を流用した紀伊型戦艦[54][55]、十三号型巡洋戦艦と呼ばれる新規設計艦の予定であった[56][57]。
1922年(大正11年)2月に締結されたワシントン海軍軍縮条約により[58]、本型は全艦が建造中止となる[59][注 13]。 だが改装によって航空母艦に転用することは認められていたため、建造中の天城と赤城を航空母艦に改造することになった[61][62]。建造中止時、天城型の砲塔は4基が完成していたという[63]。不要となった「赤城」の主砲塔2基は日本陸軍に譲渡され、1番砲塔は陸軍クレーン船「蜻州丸(せいしゅうまる)」[64]により壱岐要塞黒崎砲台へ運搬され、現地で要塞砲として活用された[63]。赤城の4番砲塔や予備砲身は広島陸軍兵器補給廠に保管され、終戦を迎えた[63]。残る「愛宕」、「高雄」の資材は、中止となった紀伊型戦艦、加賀型戦艦の分も含めて空母改造に流用されている[65]。
しかし、天城は1923年(大正12年)9月に発生した関東地震(関東大震災)で被災して損傷、修復困難と判断され、そのまま解体された[66]。天城の代艦として、横須賀で処分を待っていた加賀型戦艦の加賀を[36]、航空母艦に改造した[46]。こうして「赤城」と「加賀」が空母として就役し[67][68]、数度の改装を繰り返した後、太平洋戦争の緒戦で活躍した。
艦型
編集41cm主砲10門という加賀型戦艦と同等の攻撃力と30 ktの高速力を両立させる関係上、船体全長は250 mを超えるものとなった[1]。天城型の防御設計は加賀型戦艦と共通であるが、高速発揮のためには、船体長大化・機関部強化・燃料増載にともなう重量増加と排水量増加をできるだけ抑える必要があった[26]。そのため、天城型は装甲を薄くして重量を稼いでいる[26]。それでも加賀型と同じく舷側防御に傾斜甲鈑やバルジを採用、甲板装甲を最大95 mmとするなど[72]長門型戦艦よりも優れた防御力を持つ。さらに天城型の副砲は上甲板にまとめられて船体舷側以下はすべて水密区画となっており、加賀型より進歩した設計となっている[26]。本型は、フィッシャー型の戦闘巡洋艦 (Battle Cruiser) から進化して、同等クラスの主砲弾に耐える装甲を持つ、排水量4万1000t[注 15]の高速戦艦 (Highspeed Battleship) となった[1]。
武装は41cm砲を艦首部分に連装砲塔2基、中央および後部に連装砲塔3基を配した[1]。砲塔配置は加賀型より進歩し、3番砲塔を一層上の甲板に設置することで射界を広くとっている[73][74]。砲塔は加賀型と基本的に同一構造だが、重量軽減のため側面と天蓋の装甲を若干削っている[75]。 なお上甲板に魚雷発射管が搭載される予定であり、水雷戦闘にも対応できた[76]。前述のように、副砲は上甲板の構造物にまとめられている[26]。また、建造中の計画変更として4番砲塔上部には艦載機を発艦させるための滑走台、甲板上には係留気球を運用する設備を備えたほか、当初は二本の直立煙突として計画された煙突を上部で一体化させた集合煙突とした[77]。
速力30ノットを実現するため予定機関出力は4軸合計13万1200馬力に達するものとなった。ボイラーは長門型や加賀型と同じく重油専焼缶と石炭混焼缶の併用であったが、主機械は推進軸1軸あたりの出力が大きくなったためタービンや歯車減速装置の構成が変更された。なお本型の機関は日本海軍の大型艦で初めて10万馬力を超えたものであり、ワシントン海軍軍縮条約後に建造された妙高型重巡洋艦以降の機関開発にも影響を与えた[78]。
呼称
編集一般に、本級は“天城型巡洋戦艦”[1]、もしくは“天城級巡洋戦艦”と呼ばれる[79]。当時のマスメディアだけでなく、日本海軍や造船技師でも天城型(天城級)の呼称を用いた[22]。その一方で“赤城型巡洋戦艦”、もしくは“赤城級巡洋戦艦”と呼称されたこともある[80][注 16]。稀に“愛宕級巡洋戦艦”を用いた事例もあった[注 17]。
同型艦
編集- 天城(あまぎ)[88] - 1919年(大正8年)7月17日、艦名決定[89]。横須賀海軍工廠では戦艦陸奥進水後、本艦のために船台を延長する[注 8]。1920年(大正9年)12月16日、横須賀海軍工廠にて起工[90]。ワシントン軍縮会議の情勢を鑑み、建造中断[注 18]。条約締結後、1923年(大正12年)に航空母艦への改装が決定する[注 19]。本艦の工事を巡って憲政会と政友会が対立し、第46回帝国議会は大混乱となった[93][注 20]。同年9月1日に発生した関東地震で大破し、解体処分[2](代艦として戦艦加賀が空母に改造される)[注 21]。一部が浮き桟橋の資材として利用され、現在も民間の造船所に現存。艦名は雲龍型航空母艦の天城へ引き継がれる。
- 赤城(あかぎ)[96] - 1919年(大正8年)7月17日、艦名決定[89]。当時の呉海軍工廠では戦艦「長門」(全長 215.8メートル、常備排水量33,800トン)を建造するのが限度だったので、同艦進水後にドックの拡張工事を実施[注 7]。1920年(大正9年)12月6日、呉工廠にて起工[97][98]。18インチ(46センチ)砲8門搭載と報道されたことがある[99][注 22]。軍縮会議の進捗状況を鑑み、建造中断[注 18]。ワシントン軍縮条約により航空母艦に変更[101]。以後はリンク先を参照のこと。当時のマスメディアや論説で、赤城級航空母艦(赤城型航空母艦)と称されたこともある[86][注 23][注 24]。
天城型巡洋戦艦が登場する創作作品
編集- ヘクター・C・バイウォーター『太平洋の争覇戦 1931 - 1933』(北上亮二訳、白鳳社、1925年)
脚注
編集注釈
編集- ^ 天城型巡洋戦艦は加賀型同様所謂「ポスト・ユトランド型」であり、第一次世界大戦前に設計・建造された金剛型巡洋戦艦とは設計思想が異なる[1]。
- ^ 紀伊型戦艦は、天城型の準同型艦である[2]。
- ^ #軍艦基本計画資料Sheet2,Sheet116で天城の排水量41217の値もある。
- ^ 八四艦隊案、八六艦隊案、八八艦隊案と発展した[21]。艦隊決戦で単縦陣を形成した場合、先頭から巡洋戦艦4隻 ― 戦艦8隻 ― 巡洋戦艦4隻という配置であったという[18]。
- ^ 〔 (前略)[22] 此巡洋戰艦と云ふ艦種に於きましては前申ました通り攻撃力及速力に餘りに重きを置き其爲に防禦力を犠牲にしたのが弱點でありまして其結果が大正五年五月三十一日の英獨間の「ジャットランド」海戰に於て現はれました 英の巡洋戰艦「クヰンメーリー」は交戰僅かに十五分ばかりにて撃沈せられ次で間もなく「インデファチゲーブル」も同様の運命に遭遇致しました 我海軍に於きましても次の巡洋戰艦天城、赤城の設計を決定せらるる迄は種々の議論がありまして外國でも非常な大速力を有する艦が出來るから我海軍の巡洋戰艦も之に劣らぬ様な速力が欲しいのでありましたが前記の事柄に鑑み巡戰と雖も防禦を苟にすることは出來ませんから天城級に於ては速力は戰艦に比し幾分の優速を有する位に止め防禦力に相當の注意を拂ふたものが設計せられ横須賀及呉の二工廠に於て陸上工事は相當に進みましたのですが軍備制限條約の爲めに未だ進水するに至らずして航空母艦に變更せらるることになりましたので巡洋戰艦としての要目は申上る自由を得ませぬ。〕
- ^ イギリス海軍の正式名称は戦闘巡洋艦 (Battle Cruiser) であるが[23]、日本海軍の巡洋戦艦は「巡洋艦の速力を持った戦艦」 (Cruiser Battleship) という性格をもっていた[24][25]。
- ^ a b c ○巡洋戰艦赤城 来月上旬起工[28] 戰艦長門を完成した呉海軍工廠では十二月上旬吉日を卜して更に四萬噸級の巡洋艦赤城の起工式を擧行することに決定した而して右龍骨を据付くべき第三船渠は延長幅員共に三萬噸級艦を容るゝに過ぎないので目下擴張中であるが起工には差支ないので一方に船渠の擴張工事を行ひつゝ新艦の建造に着手する筈である此新艦赤城は榛名、霧嶋の二萬七千五百噸に比し排水量において一萬五千餘噸を増大し主砲其他の兵器においても新機軸を出すべく英國の巡洋戰艦フツド級 米國の巡洋戰艦レキシントン級に匹敵し若くは之を凌駕すべきものであると尚姉妹艦天城も十二月中旬横須賀工廠で起工式を擧行した(呉)(記事おわり)
- ^ a b ○巡洋戰艦天城起工 ◆世界の耳目を蒐めて横須賀工廠が晴の大工事に取掛る◆ ― 帝國海軍の一大勢力 ― [29] 八八艦隊巡洋戰艦の第一艦たる天城は愈十一月上旬横須賀海軍工廠で曩に進水し戰艦陸奥の船臺跡に延長工事を爲し其竣工を俟て同船臺に盛大なる起工式を擧げ直に起工することになつた(以下略)
- ^ 天城級等[31] 軍艦加賀及び土佐の設計完成後、新巡洋戰艦の設計が開始せられ、翌年完成するに至つた。是等の巡洋戰艦は天城、赤城、高雄、愛宕と名づけられ、八八艦隊中の四巡洋戰艦であつた。天城赤城の兩艦は一九二〇年に起工せられたが、華府條約の規定により、遂に進水前に廢棄せられ、巡洋戰艦としての存在は突然抹殺さるゝに至つたのである。是等の艦の計畫要目は次の通りである。/長さ(P.P.)七七〇呎-〇吋 最大幅(W.L.)一〇一呎-〇吋 吃水三一呎-〇吋 排水量四一,二〇〇噸 速力二八.五節 兵装{主砲 十六吋砲-十門 副砲 五吋半砲-十六門 高角砲 三吋-四門 發射管 二十吋-八門/以上の外既に戰艦紀伊及び尾張の設計が華府會議前に完了して居つたので、その排水量は四二,六〇〇噸に達し、八八艦隊計畫の第九第十番艦であつた。尚ほ此の上に八八艦隊計畫の主力艦六隻が殘つてゐたが、當時は唯考究せられただけであつた。若し華府會議が決裂して、此等の六隻が實現したならば、其の排水量は
よ り 以上に増大し、之に伴ふ建造費の増加は推測に難しくない。華府會議後我が海軍は主力艦の建造に關しては、事實上全く中絶の有様で、唯一九三一年の終りに於て起工さるべき三五,〇〇〇噸の主力艦に對する準備的研究を續行してゐるにすぎぬのである。 - ^ 赤城[37] 華府會議によりて廢棄せられた四一,二〇〇噸の巡洋戰艦天城及び赤城は航空母艦に變更せられた。兩艦は巡洋戰艦として既に防禦甲板の大部分が竣成してゐた。故に下層部は其の儘に殘し、防禦甲板及び其の隣接部を改造した。上層部は航空母艦に改造せらるゝため、全く設計が變更せられた。改造に當つて考慮せられた主なる特色は次の通りである。
(一)吃水が三一呎より二二呎に變更せらるゝ爲に生ずるメタセントリック・ハイトを適當に保つ爲えと、更に防禦甲板及び其の隣接部の改造に際し、その重量を減少するために、幅が一〇一呎より九二呎に縮小せられた。且つ又推進効率を低下せしめない爲、出來る限りツリム・バイ・スターン(Trim by stern)を與へられた。/(二)航空機達箸の便宜を主眼として、上部構造物の配列を設計した。之がため煙突は右舷外側に導かれ、且つ達箸甲板に全然障害物が突出しないやうに煙突の高さは該甲板以下に押へてある。/(三)達箸甲板の前部及び前艦橋の前部は發艦甲板とせられてゐる。/(四)十門の八吋砲と十二門の四.七吋高角砲は航空機の達箸及び發艦を妨げないやうに配置してある。/(五)設計の性質上船體の水準線上の高さが高くなる傾向があるが、之を出來得る限り局限した。
此の計畫は一九二三年の夏完了した。當時横須賀海軍工廠造船船臺上に在つた天城は、一九二三年秋に起れる大震災の際、造船臺の破損のために全く破毀された。斯くて天城の保存は絶望となつたので、遂に解體せらるゝに至つた。之がため當時呉海軍工廠に於て改造中の赤城のみがその工事を續行せらるゝことになり、之と同時に解體豫定の加賀が天城に代つて航空母艦に改造せらるゝことに決定した。/ 赤城は一九二七年に竣工し、直に就役したが、今日までの所全く滿足すべき成績を収めてゐる。 - ^ 戦艦「加賀」は川崎造船所で建造され、1921年(大正10年)11月17日に進水した[39]。未完成のまま神戸から横須賀に回航され、1922年(大正11年)7月14日に到着、1年以上放置されていた[36]。
- ^ 〔 航空母艦[40] 飛行機の發達に伴ひ極めて重要な艦種の一つでありまして、ワシントン軍縮會議の結果制限を受けました。我國最初の航空母艦は鳳翔でありまして、大正十一年竣工基準排水量7,470噸速力25節であります。次で大正八年に排水量7,100噸の龍驤が出來ました。その他に巡洋戰艦及戰艦から改装した赤城、加賀があり、昭和十年には10,050噸の蒼龍が進水致しまして目下艤装中であります。〕
- ^ 特務艦建造繰上の爲 海軍に失業者無し 岡田艦政本部長の説明[60] ◇軍備制限 の結果失業問題を如何に解決するか海軍當局に於て尠からず苦心をした、現在主力艦を建造しつゝあるは横須賀、呉兩海軍工廠及び川崎三菱兩私立造船所であつて其の配置は
△横須賀 巡洋艦天城 戰艦尾張/△呉 巡洋艦赤城、戰艦紀伊/△神戸川崎 戰艦加賀、巡洋艦愛宕/△長崎三菱 戰艦土佐、巡洋戰艦高雄
となつて居り是當は皆華府會議の結果として當然工事を中止せらるべきものである次に ◇補助艦艇 は建造中の分を其儘繼續して差支へないのであるがそれが幾隻あるかと云ふに左の如くである
△浦賀 輕巡洋艦五十鈴 △長崎三菱 同名取 △浦賀同阿武隈 △川崎 同鬼怒同神通 △横濱 同那珂 △三菱 同川内 △海軍工廠 同三隻合計十隻 △一等驅逐艦十隻 △二等驅逐艦十四隻
假りに八隻の主力艦を竣工迄繼續するとなると工事の割合は主力艦六割補助艦四割となる計算であるが尚現在の ◇主力艦の 工程を見るに
△加賀、土佐は既に進水し兵装其他の準備は略完成して取付をなす迄なり △赤城、天城は來年五六月頃進水の豫定 △高雄、愛宕は龍骨を据付け工事に着手したり △紀伊、尾張は材料の準備大部を完了
と云ふ状態であつて右主力艦の建造に直接關係せる職工は海軍工廠川崎三菱兩造船所を合せて総計二萬七千人に達する(以下略) - ^ 筑波型巡洋戦艦(筑波、生駒)と[69]、鞍馬型巡洋戦艦(鞍馬、伊吹)は巡洋艦として竣工し、大正元年8月28日付で巡洋戦艦に類別された[70]。金剛型巡戦4隻は、各艦とも装甲巡洋艦として発注された[71]。
- ^ 主砲、速力、排水量は「軍艦尾張製造の件」pp.17-19より。大蔵省の資料には、「愛宕級巡洋戦艦」4万3000tの数値が見られる。「日英米艦船建造費比較」p.1。
- ^ 赤城型の使用例は官房4296号(1920年11月26日付)[81]、『軍縮の不安と太平洋戰爭』(1930年)[82]、 赤城級は、『海軍読本』(1932年)[83]、『海軍の科学』「戰艦「長門」と「陸奥」はいつ出來たか」[84]、斎藤忠『太平洋戦略序論』(1941年)[85]など。また永村清海軍造船中将は『石川島技報』「日露戦役後の我が製艦」(1938年)という連載で空母改造後の赤城について「赤城級」と表記している[86]。
- ^ 兵器、船體、機關竝其ノ局具ノ工作ニ要スル圖面等ニ關シ極秘(秘)書類トシテノ取扱區分[87] 大正十二年二月十九日(官房機密二〇一)二、船體關係(イ)極秘(中略)二、特殊ノ形状ヲ有スル艦艇(例ヘハ土佐級、愛宕級ノ如シ)ノ線圖、「ボデープラン」、排水量等計算表及同曲線圖(以下略)
- ^ a b 巡洋戰艦赤城の建造中止[91] 帝國海軍では華府會議海軍制限案の進捗に鑑み既定八六艦隊計畫に属する戰闘巡洋艦天城(横須賀で建造中)を國防艦と改造する筈だが、更に一方では呉造船所で起工した巡洋戰艦赤城の建造も中止することとなつたといふ=九日發(記事おわり)
- ^ 天城艦建造不正品納入事件質問 憲政會政府を難詰[92] 横須賀海軍工廠にて建造工事を進めたる超努級戰艦天城は華府海軍協定の結果工事を中止し今回更めて二万七千噸の航空母艦に改造さるる事となつたが同艦建造に當り不正品を納入せる事實が多いので憲政會側より緊急質問をなした(以下略)
- ^ 本社東京特電(三月廿七日午後二時着)●議會閉會前の爭闘 天城艦事件で政府彈劾騒ぎ ―深夜迄擲合ひの喧嘩[94] 憲政會提出の航空母艦に改造さるべき天城艦不正工事を理由とせる政府彈劾案に就き廿六夜遅く迄政友會議員と憲政會議員とは擲合ひの喧嘩をなし打つたり蹴つたり空前の醜態を演じたり政友憲政兩派の爭闘は廿七日午前の議會閉會間際にも演ぜられたり(記事おわり)
- ^ 大戰艦加賀を航空母艦に改造す[95] 航空母艦に改造さるる事となり居たる戰闘艦天城(二萬七千噸の巨艦にして華府海軍協約の爲め廢棄を規定さる)は今回の地震にて大損害を蒙り修繕困難となりたるを以て其の代りに神戸川崎造船所に建造中なりし大戰艦加賀を航空母艦となし、天城艦は全然破棄と決定した(記事おわり)
- ^ ●戰艦赤城の威力[100] 大正九年度中に呉工廠に於て起工の筈なりし巡洋戰艦赤城は材料の蒐集並に船渠擴張のため遅延を來せるより豫定に遅れ早くも本年六七月頃ならでは起工する能はざる由なるが同艦は排水量四萬噸昨秋呉工廠に於て進水した戰艦長門よりも約一萬噸大の巨艦にして全長八百五十呎 最大幅員二十呎 速力二十節 主砲十八吋八門にして(以下略)
- ^ 使用例としては、『日米果たして戦ふか』(1931年)[102]、『英米赤露の襲来』(1932年)[103]、『われ等若し戦はば』(1933年)[104]など。日本海軍も稀に「赤城型航空母艦」と表記したことがある[105]。
- ^ 新航空戰隊の威力[106] 横須賀で艤装中の赤城型加賀が今秋御大典までに完成するので十二月一日の新艦隊編制から新に赤城、加賀の兩艦を以て第一航空戰隊を編成することになつた。實現の後は海軍の空中威力著しく増大するわけである。
- ^ 新艦「高雄 たかを」「愛宕 あたご」四萬噸の巡洋戰艦[108] 第三十九義會の協賛を經たる軍備補充費を以て建造し來る十二年度迄に完成を期すべき所謂八六艦隊の基本艦として将來國防の第一線に列すべき巡洋戰艦二隻の艦名は豫て海軍大臣より御裁可奏請中の處今般「高雄」「愛宕」と命名することに御裁可ありたるが同艦は約四萬噸の計畫にして帝國海軍創設の技術により攻防力とも優秀ならしむるものにして同艦名は日清戰役中伊藤中将の率ゐる常備艦隊に属せし舊艦高雄(一七七八噸)愛宕(六一二噸)の艦名を襲へるものなり(記事おわり)
- ^ ◆新巡洋戰艦名稱 ▲愛宕あたご、愛鷹あしたか と命名[112] 第三十九議會の協賛を經たる巡洋戰艦二隻は赤城、天城と命名せられたるが第四十議會の協賛を經たる二隻の巡洋戰艦の名稱については過般來折衝中の處最近愛宕、愛鷹の假名を附することとなりたるが何れ御裁可を經たる上決定する次第なりと(記事おわり)
- ^ ●巡洋戰艦[113] 八六船隊中未起工巡洋戰艦二隻は何れも九年度に於て造艦着手に決定したるが其艦名は先に愛宕、愛鷹と命名せんとの内儀ありしも其後詮議の結果愛宕高尾と内定し御裁可を仰ぐべく近く奏上の手筈なり(以下略)
- ^ ◎闇から闇へ 廢艦「土佐」の進水式 伏見若宮台臨の下に賑かに擧行され最後を飾る爲め盛んに景氣を添ふ[116](土佐記事略)~~◎廃艦の運命を眼前に控えて高雄の起工式 右の進水した土佐よりもまだ悲惨な運命を持つ巡洋戰艦四萬二千噸の高雄は翌十九日午前十時立神三菱造船所で諏訪神社神官より武田三菱會長以下多數参列して起工式を行ひ船臺に龍骨の一部を据付けたと云ふ(記事おわり)
出典
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