赤井 時家(あかい ときいえ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将丹波赤井氏の頭領として、氷上郡を中心に丹波国で勢力を誇った国人である。

 
赤井時家
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 明応3年(1494年
死没 天正9年5月8日1581年6月9日
別名 五郎、芦田兵衛大夫
戒名 少休
墓所 知恩寺慶運院
官位 越前守
主君 細川高国細川晴元
氏族 丹波赤井氏
父母 父∶赤井忠家
母∶不明
兄弟 時家長家長正君家
家清直正幸家山口直之、熊千代、
時直
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生涯

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丹波は明徳の乱以降は管領細川氏の領国であり、波多野氏や赤井氏は、船岡山合戦に勝利し政権を握った管領細川高国や丹波守護代内藤氏の傘下にあった。

しかし、大永7年(1527年)には細川高国に弟・香西元盛を誅殺された波多野元清柳本賢治兄弟が反乱を起こすと、赤井五郎(忠家)は波多野氏に加勢し、柳本賢治が篭る神尾山城を包囲していた細川尹賢を急襲しこれを敗走させた[1][2]。その後、阿波三好政長軍と合流した赤井・波多野・柳本の丹波軍は高国方との戦いに勝利し、入洛を果たした(桂川原の戦い[3][4]。 時家の父・忠家は享保2年[5]、57歳で死去とされるが[6]享禄2年(1529年)の間違いと考えられる[注釈 1]

享禄3年(1530年)に柳本賢治が死去し[10]、一方の細川高国も大物崩れにより敗死すると[1][11]、阿波国の細川晴元が幕政の主導権を握り、赤井氏はこれに従った[注釈 2]。しかし波多野秀忠(元清の子)は高国の弟・細川晴国を奉じて挙兵し、晴元方の内藤氏や赤沢氏は敗れ、晴国による丹波の「一国平均」が成し遂げられた[13]

この後、波多野秀忠が晴元方に転じ、天文5年(1536年)、細川晴国が摂津国天王寺で自害する[14]。また、波多野秀忠は勢力を拡大し「丹波守護」と呼ばれるに至っている[15][16]。しかし天文12年(1543年)、今度は細川高国の養子・細川氏綱(尹賢の子)が挙兵し[17]、天文21年(1552年)には三好長慶に奉じられて細川氏当主の地位に就いた[18]。京を追われた細川晴元が波多野元秀(秀忠の子)を頼って丹波に入ると、赤井時家も細川晴元を支援し、三好長慶と対峙することとなった。

天文22年(1553年)、内藤国貞が晴元方との戦いで戦死すると、三好家の重臣で国貞の娘婿である松永長頼が内藤家に入り、内藤宗勝と名を改めた[19]。宗勝は永禄2年(1559年)には波多野元秀からその本拠地・八上城を奪い、波多野秀親波多野次郎を被官に加えるなどしている[20]

弘治元年(1555年)、氷上郡の国人も二つに分かれ、細川晴元方の赤井一族と、細川氏綱方の芦田氏・足立氏が氷上郡香良で合戦を行った[21]。この戦いで、時家の子の家清直正が重傷を負ったものの[21]、芦田氏・足立氏も多くの一族を失い、赤井氏は氷上郡をほぼ完全に支配下においた[22]。 弘治3年(1557年)2月に赤井家清が先の負傷が元で死去し、家清の跡を継いだ子の忠家を叔父の荻野直正が補佐していく[6][23]

この後、内藤宗勝が氷上郡に侵攻したとみえ、永禄5年(1562年)から8年(1565年)の間と推定される内藤宗勝書状からは、その時期の黒井城に内藤方が在城していることがわかる[24]。また赤井系図には「内藤某に攻められ播磨国三木に赴く」とあり[6]、この時内藤宗勝により丹波を追われたことを指すと考えられる[24][注釈 3]。しかし時家は丹波へと戻り、永禄7年(1564年)頃には氷上郡と天田郡の境の烏帽子山に築城し、天田・何鹿両郡を掌握した[26]。永禄8年(1565年)には天田郡または何鹿郡で、直正が内藤宗勝を討ち取っている[27]

しかし、荻野直正の死後の天正7年(1579年)、織田家の重臣明智光秀に黒井城を落とされ赤井氏は没落した。時家は、天正9年(1581年)5月8日、88歳で死去したとされる[6]

脚注

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注釈

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  1. ^ 赤井氏の本拠地・新郷(兵庫県丹波市氷上町)にある墓碑や同地鷲住寺の位牌では「天文2年(1533年)5月24日」の死没とされており、この時に波多野氏と戦い討死したとも考えられている[7]。しかし天文8年(1539年)に忠家の発給した判物が残っており、それ以後の死没と考えられる[8][9]
  2. ^ 赤井忠家・時家父子が晴元方として活動していることを示す書状が複数残っている[12]
  3. ^ 赤井氏が丹波を追われた時期については、波多野秀忠が細川晴国方として活動する天文2年(1533年)との見方もある[25]。これによると、赤沢氏は細川晴元からの援軍として赤井氏の穂壺城を守り、敗死したとされる[25]

出典

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  1. ^ a b 細川両家記』。
  2. ^ 細見 1988, p. 81; 高橋 2020, pp. 7–8.
  3. ^ 『細川両家記』、『二水記』、『言継卿記』。
  4. ^ 細見 1988, p. 82; 高橋 2020, p. 8.
  5. ^ 1717年。
  6. ^ a b c d 寛政重修諸家譜』巻第二百四十四。 - 国立国会図書館デジタルコレクション
  7. ^ 細見 1988, p. 84.
  8. ^ 天文8年3月7日付赤井忠家判物(『福知山市史 史料編1』福知山市、1978年)。
  9. ^ 高橋 2020, p. 10.
  10. ^ 福島 2009, p. 75; 天野 2020, p. 31.
  11. ^ 福島 2009, p. 76; 天野 2020, p. 32.
  12. ^ 高橋 2020, pp. 12–13.
  13. ^ 福島 2009, p. 89.
  14. ^ 福島 2009, pp. 89–90; 天野 2020, p. 37.
  15. ^ 『大館常興日記』天文9年3月23日条、『言継卿記』天文13年6月23日条。
  16. ^ 福島 2009, p. 117; 天野 2020, pp. 48–49.
  17. ^ 福島 2009, pp. 97–98; 天野 2020, pp. 49–50.
  18. ^ 福島 2009, pp. 105–106; 天野 2020, p. 60.
  19. ^ 福島 2009, p. 113; 天野 2020, p. 65.
  20. ^ 福島 2009, p. 120; 天野 2020, p. 65.
  21. ^ a b 細見 1988, p. 86–87; 高橋 2020, pp. 15–18, 108–110.
  22. ^ 細見 1988, p. 86–87.
  23. ^ 寛永諸家系図伝』。
  24. ^ a b 高橋 2020, pp. 18–19, 124–125.
  25. ^ a b 細見 1988, pp. 83–84.
  26. ^ 高橋 2020, pp. 19, 125–128.
  27. ^ 高橋 2020, pp. 19, 128.

参考文献

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  • 天野忠幸『室町幕府分裂と畿内近国の胎動』吉川弘文館〈列島の戦国史4〉、2020年。ISBN 978-4-642-06851-2 
  • 高橋成計『明智光秀を破った「丹波の赤鬼」―荻野直正と城郭―』神戸新聞総合出版センター、2020年。ISBN 978-4-343-01061-2 
  • 福島克彦『畿内・近国の戦国合戦』吉川弘文館〈戦争の日本史11〉、2009年。ISBN 978-4-642-06321-0 
  • 細見末雄『丹波史を探る』神戸新聞総合出版センター〈のじぎく文庫〉、1988年。ISBN 4-87521-455-3 

関連項目

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