紅ルーシ

  「紅ルーシ」の地図(20世紀のガリツィア)

  ハールィチ・ヴォルィーニ大公国の領域(1347年)。

カスパル・フォペルによる「紅ルーシ」(Rote Reussen、1566年)。

紅ルーシウクライナ語:Червона Русьポーランド語:Ruś Czerwonaラテン語:Ruthenia Rubra)は、ウクライナ西部の歴史的地名である。西欧の文献におけるガリツィア地方の別称、あるいは旧ハールィチ・ヴォルィーニ大公国の領域を指す概念である。主な市町はリヴィウハールィチベルズホルムペレームィシュリ赤ルーシとも。

概要

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「紅ルーシ」という地名が最初に見られるのは、ルーシ側の史料ではなく、15世紀以降の西欧側の記録である。当初、この地名の対象とする範囲が曖昧なもので、「黒ルーシ」に代わって「白ルーシ」の反対語として用いられたと考えられる。初めて「紅ルーシ」は、1420年のウルリヒ・フォン・リヒェンタール(de:Ulrich von Richental)著『コンスタンツ公会議年代記』[1]に見られるが、ポーランド王国が支配するガリツィア地方でなく、ヴォルィーニ地方を始め、リトアニア大公国が支配するルーシの全領域をさす用語となっている。1459年ヴェネツィア人フラ・マウロが著した世界全図では、「紅ルーシ」はキエフリャザニなどを含むリトアニアの南方の隣国として描かれているが、1543年に出版されたフランスの世界全図『歴史の海』[2]において、「紅ルーシ」は「Rubea Russia」として旧ハールィチ・ヴォルィーニ大公国の領域、ガリツィア地方とヴォルーニ地方を示している。さらに、1566年ドイツ人カスパル・フォペルが著した地図では「紅ルーシ」は「Rote Reussen」としてヴォルィーニ地方の北東部からベラルーシの南西部まで広がる地域をさしている[注 1]

17世紀半ば、ポーランドの歴史学者シモン・スタロヴォルスキ(en:Szymon Starowolski)の研究により、「紅ルーシ」はポーランド王国が支配するルーシ人の居住地帯、特にルーシ県と連想されるようになる。それ以後、「紅ルーシ」は歴史書や地誌などの研究書でガリツィア地方の雅称として定着する。

「紅ルーシ」の語源は中世西欧の地理思想にあったものの、19世紀以後のポーランド人学者の一部は、その語源をポーランドの地名に求めている。彼らによると、「紅」(チェルヴォナ)は、中世ヴォルィーニ地方に存在した「チェルヴェン」[3]という町の名に由来するという。チェルヴェンは、ポーランドとルーシの国境にあったチェルヴェンの諸都市と呼ばれる地域の中心都市であり、両国の争いの種であったとされる。

脚注

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注釈

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  1. ^ 1555年製作のヨーロッパ地図が再版されたもの。フォペル自身は1561年に他界している。

出典

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  1. ^ Ulrich Richental. Chronik des Konstanzer Konzils, Ausg. Anton Sorg, Augsburg 1483.
  2. ^ La Mer des Hystoires, Paris, Nicolas Couteau, 1543. 元の地図は1491年リヨンで作成されたという。
  3. ^ ウクライナ語:Червен;ポーランド語:Czerwień

関連記事

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参考文献

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外部リンク

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