贄土師部
概要
編集『日本書紀』巻第十四には雄略天皇17年(推定473年)の贄土師部の由来の話が以下のように記されている。
土師連等(ら)に詔して「朝夕(あしたゆふべ)の御膳(みけつもの)盛るべき清器(きよきうつは)を進(たてまつ)らしめよ」とのたまへり。是(ここ)に、土師連の祖吾笥(あけ)、仍(よ)りて摂津国(つのくに)の来狭狭村(くささのむら)、山背国の内村(うちつむら)・俯見村(ふしみのむら)、伊勢国の藤形村(ふぢかたのむら)、及び丹波(たには)・但馬(たぢま)・因幡の私(わたくし)の民部(かきべ)を進(たてまつ)る。名(なづ)けて贄土師部(にへのはじべ)と曰ふ。
現代語訳:土師連らに詔して、「朝夕の膳部に用いる清いかわらけを進上せよ」といわれた。そこで土師連の先祖の吾笥が、摂津国の久佐々村、山背国の内村、伏見村、伊勢国の藤方村と丹波・但馬・因幡の私有の部曲をたてまつった。これを名づけて贄の土師部という[1]
また、『書記』の安閑天皇元年(推定535年)閏12月是月にも、物部尾輿が廬城部枳莒喩の娘の一件で、登伊(とい)村の贄土師部などを天皇に献上したともあり[2]、一時期物部氏が贄土師部を管理していた可能性もある。
『新撰姓氏録』大和国神別には、土師宿禰の同祖である「同神十六世孫意富曽婆連之後也」とする贄土師連が見え、一族の中には大膳職の少属となっているものもおり、大膳職所属の伴造であった膳部の負名氏と考えられている。『儀式』には、「贄土師竈」があり、『延喜式』によると、大和国贄土師は竈を28口、河内国贄土師は「贄土師鋺形」270口を貢進したとある[3]。以上のように、竈・釜・甑などを含む炊飯・食器用土器が存在していたことが知られている。河内国にも分布していることや、韓竈を製造したところから、贄土師氏と百済系渡来氏族の技術の関連性も想像されている。