賀露村
日本の鳥取県気高郡にあった村
賀露村(かろそん)は、鳥取県高草郡・気高郡にあった村・自治体である。
かろそん 賀露村 | |
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廃止日 | 1937年2月15日 |
廃止理由 |
編入合併 賀露村 → 鳥取市 |
現在の自治体 | 鳥取市 |
廃止時点のデータ | |
国 | 日本 |
地方 | 中国地方(山陰地方) |
都道府県 | 鳥取県 |
郡 | 気高郡 |
市町村コード | なし(導入前に廃止) |
面積 | 5.01 km2 |
総人口 |
3,178人 ([1]、1937年) |
隣接自治体 | 鳥取市、湖山村、千代水村、末恒村 |
賀露村役場 | |
所在地 | 鳥取県気高郡賀露村1069番地 |
座標 | 北緯35度31分54秒 東経134度11分38秒 / 北緯35.5318度 東経134.193758度座標: 北緯35度31分54秒 東経134度11分38秒 / 北緯35.5318度 東経134.193758度 |
ウィキプロジェクト |
概要
編集現在の鳥取市賀露町・賀露町北・賀露町西・賀露町南におおむね相当する。千代川河口の左岸に位置し、西側には湖山砂丘(広義の鳥取砂丘の一部)が広がっていた。
賀露は加路・賀呂・軽とも書き、「カル」とも読んだ。語源については、因幡にゆかりの深い武内宿禰の子孫の軽部臣(かるべのおかみ)がいたという説、アイヌ語の「Ka(上の)」「Ru(路)」から転化したという説、海岸地帯であることから「Karl」(カール)に由来するという説などがある。平安時代の文書に布施郷加露荘と書いてあり、「カル」は「カロ」の訛ったものとされる[1][3]。
鳥取の城下町が発展すると賀露はその外港として繁栄し、鳥取藩は軍事経済上重要な場所のため船手番所を置き警備にあてた。明治に入り商業が自由になると港湾改修の必要性が一層強まり、明治10年頃にオランダ人技師のヨハニス・デ・レーケが視察した。1889年(明治22年)に西防波堤が築造され、それ以来整備改修が行われた[1][3]。
沿革
編集- 元禄14年(1701年) - 賀露村から枝郷の南隈村と晩稲村を分村[3]。
- 1881年(明治14年)9月12日 - 鳥取県再置。
- この間、高草郡賀露村外六ヶ村連合戸長役場を賀露村に設置し、同村および徳吉村・安長村・秋里村・江津村・晩稲村・南隈村を管轄[4]。
- 1889年(明治22年)10月1日 - 町村制の施行により、連合戸長役場管轄区域のうち賀露村が単独で自治体を形成して高草郡賀露村が発足。大字は編成せず。なお他の6ヶ村は合併して千代水村となった[4]。
- 1896年(明治29年)4月1日 - 郡制の施行により、高草郡・気多郡の区域をもって気高郡が発足し、気高郡賀露村となる。
- 1929年(昭和4年)12月1日 - 役場位置を1069番地に変更[5]。
- 1937年(昭和12年)2月15日 - 鳥取市に編入。同日賀露村廃止[6]。
- 1937年(昭和12年)3月2日 - 旧村域を鳥取市賀露町とする[7]。
行政
編集村長
編集- 宮崎才吉:1913年(大正2年)3月 - 1920年(大正9年)、1924年(大正13年) - 1936年(昭和11年)頃[8]
教育
編集- 賀露尋常高等小学校(現・鳥取市立賀露小学校)
交通
編集港湾
編集鉄道
編集- 最寄りは湖山駅
道路
編集- 賀露街道: 千代水村の秋里・南隈を通って賀露に通ずる道路[4]
出身者
編集脚注
編集- ^ a b c 鳥取市七十年 : 市史(鳥取市、1962年)
- ^ 1/25000鳥取北部 昭和7年測図・昭和9.11.30発行(今昔マップ on the web)
- ^ a b c d 角川日本地名大辞典 鳥取県「賀露」「賀露村(近世)」「賀露村(近代)」
- ^ a b c 千代水村誌(橋本寿雄、1983年)
- ^ 「村役場位置変更」『官報』1929年12月9日(国立国会図書館デジタルコレクション)
- ^ 「鳥取県告示第55号・気賀郡賀露村ヲ鳥取市ニ編入」『鳥取県広報 第797号』1937年2月2日(鳥取県立公文書館)
- ^ 「鳥取県告示第122号・鳥取市町名ヲ新設賀露町」『鳥取県広報 第805号』1937年3月2日(鳥取県立公文書館)
- ^ 帝国現代人物誌 続編(新聞贅六パック社編輯局、1936年)