賀島長昌
日本の戦国時代~安土桃山時代の武将。織田禅正忠家臣賀島長重の子で、豊臣家宿老蜂須賀正勝娘婿。阿波賀島氏初代当主。阿波徳島城代(1万石)を勤めた
賀島 長昌(かしま ながまさ、? - 天正16年7月4日(1588年8月25日))は、戦国時代の武将。阿波徳島藩家老賀島家初代当主。父は織田家家臣・賀島長重。正室は蜂須賀正勝の娘・奈良姫。子は賀島政慶、山田宗登室、益田長行室、益田正高室。通称は弥右衛門。
時代 | 戦国時代 |
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生誕 | 不詳 |
死没 | 天正16年7月4日(1588年8月25日) |
別名 | 弥右衛門(通称) |
墓所 | 本覚寺 |
主君 | 今川義元→織田信長→蜂須賀家政 |
氏族 | 賀島氏 |
父母 | 父:賀島長重 |
妻 | 蜂須賀正勝の娘・奈良姫 |
子 |
政慶、 娘(山田宗登室)、娘(益田長行室)、娘(益田正高室) |
生涯
編集父・帯刀長重は元駿河今川義元の家臣で、主君義元と争い駿河を退去し、尾張の織田信長に仕えた。長昌も、父と同じく信長に仕えて、戦場で武功を立て、尾張や美濃に知行を給された。
天正10年(1582年)、本能寺の変で主君信長が死去すると、天正13年(1585年)に妻・奈良姫の兄である蜂須賀家政を頼って阿波に来た。家政より1万石を与えられ徳島城を預けられたが、天正16年7月4日(1588年8月25日)に死去した。
系譜
編集参考文献
編集- 東京大学史料編纂所「賀島系図」