谷本政一
谷本 政一(たにもと まさかず、1904年(明治37年)6月28日 - 没年不明)は、日本の海軍軍人、陸上自衛官、実業家。最終階級は海軍中佐(帝国海軍)、陸将補(陸自)[1]。
実業之世界社編『現代人物史』より | |
生誕 |
1904年6月28日 日本・香川県香川郡檀紙村 |
死没 |
没年不明 日本 不明 |
所属組織 |
大日本帝国海軍 警察予備隊 保安隊 陸上自衛隊 |
最終階級 |
海軍中佐(帝国海軍) 陸将補(陸自) |
親族 | 有馬真喜子(長女) |
陸上自衛隊武器学校初代校長。東急車輛製造元取締役・大宮工場長[2]。東邦特殊自動車工業(現・新明和工業)元常務取締役[3]。
経歴
編集香川県香川郡檀紙村(現・高松市檀紙)出身(神奈川県出身と記載された文献あり)[4][5]。1924年(大正13年)、海軍機関学校(33期)を卒業[1][3]。以来30有余年を武官ひとすじに生き抜いた[3]。1943年(昭和18年)6月1日、海軍中佐に進み、海軍航空本部部員海軍省人事局局員、兼軍需省軍需官として勤務中に終戦を迎えた[1][3]。
戦後は、1951年(昭和26年)警察予備隊に入り、1952年(昭和27年)から1953年(昭和28年)まで武器学校長を務める。1953年(昭和28年)防衛庁陸上自衛隊需品補給処長、1955年(昭和30年)同武器補給処長を歴任[3]。1956年(昭和31年)陸将補にあげられた[3]。
その後、1961年(昭和36年)に東邦特殊自動車工業の常務となり、陸将補から実業界に入った異色の業界人として注目される[3]。
1964年(昭和39年)1月、東急車輛製造取締役・大宮工場長に就任[3]。1968年(昭和43年)1月、同職を退任[3]。
人物
編集趣味は狩猟とゴルフ[3][5]。妻・清子(1908年生)との間に3男4女の子供がいる[3]。その内、長女の有馬真喜子(1933年生)は津田塾大学を卒業後、朝日新聞本社に勤務した(同社女性初の記者)[3]。長男の政知(1935年生)は早稲田大学を卒業後、三菱重工業に勤務した[3]。随筆家の谷本真由美は、いすゞ自動車の技術者であった三男・政則(1943年生、東京理科大学卒)の長女にあたる[3][6][7][8]。
性格
編集軍権が華やかだった時代を通りながらも、失われなかった谷本の「寛仁大度」の人柄について『現代人物史』(実業之世界社編)では以下のように記述されている[3]。
東邦特殊自動車の常務に就任したのが昭和三十六年だから、業界ではまだ新顔の部類に属するが、清濁併せ呑む放胆さといい、悠容迫らざる風格といい、またにじみ出る温かい人間味といい、まさに将領の器。大まかにみえながら急所だけはちゃんと押えた経営手腕もあなどりがたい。根が技術屋だけに、特殊自動車の生命ともいうべき技術の革新と強化拡充に腕を挿い、東急車輛に合併後も活躍を続けている。 — 「谷本政一」の項より抜粋、実業之世界社現代人物史編集部『現代人物史』p285より引用
脚注
編集- ^ a b c “人名事典たに~.The Naval Data Base.”. hush.gooside.com. 2022年10月17日閲覧。
- ^ “東急車輛製造(株)『美しい時代の創造 : 東急車輛50年史』(1999.05) | 渋沢社史データベース”. shashi.shibusawa.or.jp. 2022年10月17日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q “現代人物史 - 国立国会図書館デジタルコレクション”. dl.ndl.go.jp. 2022年10月17日閲覧。
- ^ 『高松百年史 資料編』高松市、1988年12月、609頁。
- ^ a b “人事興信録. 第25版 下 - 国立国会図書館デジタルコレクション”. dl.ndl.go.jp. 2022年10月17日閲覧。
- ^ “https://twitter.com/may_roma/status/1348610832997998592”. Twitter. 2022年10月18日閲覧。
- ^ “https://twitter.com/may_roma/status/1348482484103766017”. Twitter. 2022年10月18日閲覧。
- ^ “https://twitter.com/may_roma/status/1348479991667957760”. Twitter. 2022年10月18日閲覧。
参考文献
編集- 実業之世界社編『現代人物史』、実業之世界社、1966年。
- 人事興信所編『人事興信録 第25版 下』人事興信所、1969年。
- 高松百年史編集室編『高松百年史 資料編』高松市、1988年。