谷川 安孝(たにかわ やすたか、1916年大正5年)3月12日 - 1987年昭和62年)12月13日)は、日本理論物理学者1939年に物理学者の坂田昌一と共に中性中間子が非常な短時間で2つあるいは3つのγ線になることを発表した[1][2]兵庫県出身。

家族とともに(1949年)

1949年日本人で初めてノーベル賞ノーベル物理学賞)を受賞した湯川秀樹に師事し、1942年に坂田昌一、井上健と共に中間子ミュー粒子は別種であり、中間子はミュー粒子より重く、中間子が自然崩壊してミュー粒子に変化するという二中間子説を提唱した学者として知られている[1]

経歴

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1916年3月12日、兵庫県に生まれ、大阪帝国大学(現:大阪大学)を卒業する。

名古屋帝国大学(現:名古屋大学)にて助教授を務め、神戸大学教授となる。その後は甲南大学で教授を、岡山理科大学でも教授を歴任した。

著書

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脚注・参考文献

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  1. ^ a b 坂田昌一[リンク切れ] - Yahoo!百科事典日本大百科全書、2012年10月27日閲覧。
  2. ^ 宇宙線[リンク切れ] - Yahoo!百科事典日本大百科全書、2012年10月27日閲覧。