諸葛直
生涯
編集黄龍2年(230年)春、孫権の命により、諸葛直と衛温に武装兵1万を率いて夷洲[1]・亶洲[2]へ向かわせ、未知の地域の調査と現地人との交誼を行う事が計画された。陸遜と全琮が反対したが、孫権の命により計画は実行に移された。
約1年後、諸葛直と衛温は帰国したが、亶洲へは遠すぎたため到達できず、兵の八割から九割を疫病で失っていた(『呉主伝』)。成果は夷洲の現地民を数千人連れ帰っただけであった。諸葛直と衛温は、詔に背いて目的が果たせなかったとして、二人とも獄に繋がれ、誅殺された。
脚注
編集- ^ 夷洲は沈瑩の『臨海水土異物志』に記述がある。「夷洲は臨海郡の東南二千里にある。土地に霜や雪がなく、草木は死なない。四方は山と谷である。人が皆、髪を剃り、耳たぶに穴を開けているが、女性は耳に穴を開けない。土地が肥沃で、元々五穀(麻、キビ、アワ、麦、豆)が生えていて、また魚も多い。犬がいて、尾が短く、のろの尾みたいである。この異民族の舅と姑、子と嫁は一つの大きな寝床で眠り、ほとんどお互いを避けようとしない。土地に銅鉄があるが、ただ戦闘においてシカの角を矛として使い、摩礪青石で矢じりをつくる。生の魚肉を取り、大きな瓦器の中に塩をいれて混ぜて蓄え、一月と数日を経て、うまいごちそうと思い、むさぼり食う。」
- ^ 亶洲は日本、種子島などの説がある。秦の時代、徐福は始皇帝に不老長寿の薬を捜すことを命ぜられた。徐福は童子・童女数千人を連れて亶洲にたどり着き、そのまま戻らなかった。その子孫が時折会稽郡に来て商いをしたり、会稽の人間が嵐に遭い、亶洲に辿り着くことがあったという。