諏訪頼重 (南北朝時代)
諏訪 頼重(すわ よりしげ)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての武将。諏訪大社の大祝とされるが不詳。父親については諸説ある。
時代 | 鎌倉時代後期 - 南北朝時代 |
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生誕 | 不明 |
死没 | 建武2年8月19日(1335年9月6日) |
改名 | 盛継[1]→頼重→照雲(法名) |
別名 | 盛高?[2]、照雲入道 |
官位 | 従五位下[2]、三河権守 [1] |
主君 | 北条氏 |
氏族 | 諏訪氏 |
父母 | 父:諏訪盛重?、諏訪宗経(直性入道)?、諏訪信重?[1] |
兄弟 | 重尚、頼直、敦禎、頼盛、顕重、継光?[1] |
子 | 時継、高重、高継、萬歳 [1] |
生涯
編集鎌倉時代において、諏訪氏は代々信濃守護の北条氏の御内人であった。東勝寺においては諏訪一門の諏訪時光(円光入道)が自刃している。
鎌倉幕府滅亡後、建武政権によって新たに信濃守護に任じられた小笠原貞宗と諏訪氏とは対立関係になり、小笠原氏の支配に対する不満もあって、やがて頼重・時継父子は得宗北条高時の遺児時行を奉じ、中先代の乱を起こした[3]。頼重は三浦氏などの援助により、渋川義季、岩松経家、今川範満、小山秀朝などを敗死させ、ついには足利直義を逃走させ、鎌倉を一時占領するが、京より派遣された木曾(沼田)家村率いる追討軍に大敗し、頼重は子・時継ら43人と勝長寿院で自刃した[4]。
『諏訪史料叢書』巻27に記載されている系図によると、北条時行を鎌倉から脱出させ信濃に連れ出した「諏訪盛高」は頼重と同一人物であるとされる[2]。
諏訪家の家督(大祝職)は、孫の頼継(時継の子)が継承した。
画像集
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諏訪照雲頼重公の供養塔(長野県茅野市宮川、頂頭部は修復の後がうかがえる)
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諏訪大社前宮鳥居(左手に案内板、供養塔は登って右側)
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諏訪神社前宮拝所(供養塔は下ると左側)