解仇 (比流王)

百済の第11代王・比流王代の大臣

解 仇(かい きゅう、朝鮮語: 해구生没年不詳)は、百済の第11代王・比流王代大臣大姓八族の一つである解氏出身の貴族官位は「兵官佐平」。文周王三斤王の時の「兵官佐平解仇とは同名異人[1][2]

解 仇
各種表記
ハングル 해구
漢字 解 仇
発音: {{{nihonngo-yomi}}}
日本語読み: かい きゅう
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人物

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312年、「兵官佐平」に任命された。これは、解氏の政治的台頭を示唆している[2]

解仇に関する情報はほとんど残っていない[2]

出自

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大姓八族の一つである解氏夫余族の出自[3]解氏は、百済の建国初期から中央政界で大きく活躍したが、百済の建国者・温祚とは異なる勢力であるため、解氏の国政参加は、百済の国政に参加する勢力が拡大していく過程といえる[3]

百濟始祖溫祚王,其父,鄒牟,或云朱蒙。自北扶餘逃難,至卒本扶餘。扶餘王無子,只有三女子,見朱蒙,知非常人,以第二女妻之。未幾,扶餘王薨,朱蒙嗣位。生二子,長曰沸流,次曰溫祚。及朱蒙在北扶餘所生子,來為太子。沸流、溫祚,恐為太子所不容,遂與烏干、馬黎等十臣南行,百姓從之者,多。遂至漢山,登負兒嶽,望可居之地,沸流欲居於海濱。十臣諫曰:「惟此河南之地,北帶漢水,東據高岳,南望沃澤,西阻大海。其天險地利,難得之勢,作都於斯,不亦宜乎?」沸流不聽,分其民,歸彌鄒忽以居之。溫祚都河南慰禮城,以十臣為輔翼,國號十濟,是前漢成帝鴻嘉三年也。沸流以彌鄒,土濕水鹹,不得安居,歸見慰禮,都邑鼎定,人民安泰,遂慙悔而死,其臣民皆歸於慰禮。後以來時百姓樂從,改號百濟。

温祚の父は鄒牟または朱蒙といい、北夫余から逃れて卒本朝鮮語版夫余に着いた。夫余王には男児が無く娘が三人いたが、朱蒙の人となりをみて非凡の人であるとして二番目の娘を嫁がせた。その後、夫余王が亡くなったので朱蒙が王位について、二人の子をなした。長子を沸流、次子を温祚といった。朱蒙がかつて夫余にいたときの子が朱蒙の下に来て太子となったため、沸流・温祚はこの太子に受け容れられないことを恐れて、烏干馬黎らの十人の家臣と大勢の人々とともに南方に逃れた。漢山まできて負児嶽に上り、居留地として相応しいかどうかをみることとした。沸流は海浜に住みたいと言い出し、十人の家臣はこの地が都とするに相応しいと諌めたが聞かず、引き連れた人々を分けて、弥鄒忽まで行ってそこに国を建て、温祚は漢山の地で慰礼城に都を置き、国を起こした。これが前漢鴻嘉三年のことであり、初め十人の家臣に援けられたので国号を「十済」としたが、のちに沸流の下に従った人たちも慰礼城に帰属し、百姓を受け容れたので国号を「百済」と改めた。 — 三国史記、巻二十三

「十済」と「弥鄒忽」の建国者と記録される沸流温祚は、個人的な政治勢力ではない。卒本朝鮮語版夫余を離れ、移民後に小国を建国したことから、一定の集団を形成していたことは間違いない。そのため、沸流温祚は十人の家臣と大勢の人々を従えていたと記録されている[4]。ところが、「十済」の建国地だった漢江流域には沸流温祚集団以外にも北方から来た移民集団がいた[4]。すなわち、「十済」「弥鄒忽」建国時、「十済」の周辺は「十済」とは別の移民が建国した小国があった。『三国史記』温祚王四十一年条は、五部の北部に属する解婁を「右輔」とし、解婁は本来夫余人だったという記録を通じて「十済」の北側に夫余からの移住者が定着していた事実が分かり、そのような夫余から移民してきた勢力が「十済」に統合され「百済」の成長につながった[4]

脚注

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  1. ^ “해구(解丘)”. 韓国民族文化大百科事典. オリジナルの2022年10月26日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20221026104751/http://encykorea.aks.ac.kr/Contents/Item/E0062432 
  2. ^ a b c “해구(解仇)”. 韓国民族文化大百科事典. オリジナルの2022年10月26日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20221026112404/http://encykorea.aks.ac.kr/Contents/Item/E0062431 
  3. ^ a b “41년 1월 북부의 해루를 우보에 임명하다(0023년 01월 (음))”. 国史編纂委員会. オリジナルの2022年11月22日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20221122124310/https://db.history.go.kr/id/sg_023r_0020_0580 
  4. ^ a b c 李鍾旭『百濟 初期國家로서 十濟의 形成』国史編纂委員会〈國史館論叢 第69輯〉、1996年7月、49頁。ISSN 1226-1882