観念学(idéologie, イデオロジー)は、フランス18世紀後半から19世紀前半にかけて主導的だった哲学思潮を指す。ジョン・ロックイギリス経験論の流れを汲むフランスの哲学者エティエンヌ・ボノ・ドゥ・コンディヤックの分析論と理想言語論(記号論)はフランス自然科学(化学、生物学、生理学など)の分野で応用され大きな成果をあげた。人間の観念[idée、イデ](思惟・感覚・意思など)領域に対してものコンディヤックの思想、方法論を適用することで人間を学的に理解することをもって人間の幸福実現をめざしたフランス革命前後の思想・哲学潮流が「観念学(イデオロジー)」である。

Destutt de Tracy 『Élémens d’idéologie, quatrième et cinquième parties』(トラシー『観念学原論』(全4巻)

「観念学(イデオロジー)」という言葉は、1798年にデステュット・ド・トラシーが提唱し自ら1801年より「観念学原論」の刊行を始めたことによって定着していった[1]唯物論と対立する意味での「観念論」や、日本では主に「主義」として捉えられているドイツ語由来の「イデオロギー」と混同されやすいが別である。

概要

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Étienne Bonnot de Condillac(1714-1780)

コンディヤック1714年 - 1780年)の哲学、中でも分析理論(方法論)と言語(数学を理想言語とする記号言語論)は、下の世代の自然科学・医学者(ラグランジュ(1736年 - 1813年)、ラヴォワジェ(1743年 - 1794年)、ラマルク(1744年 - 1829年)、ラプラス(1749年 - 1827年)、ピネル(1745年 - 1826年)、アンペール(1775年 - 1836年)、ビシャ(1771年 - 1803年)など)に著しい影響を与え、彼らの業績を導いたといっても過言ではない[2]。 コンディヤックの「分析」とは、要素還元的な「分解」とその「再構成」によって現象や対象を理解するというものである。

私が一つの機械を知ろうと思えば、その部分を一つ一つ別々に調べるために、その機械を分解するだろう。私がおのおのの部分について正確な知識をもち、それらの部分をもとの秩序に復元することができるならば、そのとき私はこの機械を完全に理解するだろう。 — コンディヤック『論理学』、『哲学の歴史6』VIII「観念学派とその周辺」村松正隆(2007年).573頁
 
ジョセフ・ラカナル 引用元文書(1794)

化学・生物学・医学で成果をあげているコンディヤックの分析的方法を、他の学問(政治学や経済学など)にも適用する機運が生まれていく。

「分野は違っても、対象が異なるだけで、観念は同じように形成されるのだから、分析は、あらゆる種類の観念に対して、同じように簡明な言語と明晰さをもたらすができる。」 -ジョゼフ・ラカナルフランス語版[3]

このような期待のもと、『観念学』はこの時代の主導的思想としての広がっていく。同時代のスタンダールが自著『恋愛論』で「私はこのエッセイをイデオロジーの書とよんだ。」[4]と書くほどフランスの知的階級に観念学は浸透していった。 それはイデオロジスト(idéologiste)たちと政治的に敵対したナポレオンが彼らを<空論ばかりいう奴ら>と侮蔑的ニュアンスを込めて「イデオローグ(idéologues)」と呼び捨てるほど世間的にも認知されていた[5]

哲学史的には、観念学派から出発しやがてフランス・スピリチュアリスムの源流となる思索(ビラニスム)へと展開していったメーヌ・ド・ビランに一定の照明があてられるものの、先行者としての観念学派とその後継者たちは、19世紀のドイツ語圏思想(フォイエルバッハカール・マルクスジークムント・フロイトフリードリヒ・ニーチェなど)の陰に隠れた形でフランス本国も含め注目されていなかったが、ミシェル・フーコーが観念学派のビシャ、デステュット、観念学それ自体も『言葉と物』で取り上げたこと[6]で観念学への関心・見直しの機運が惹起され、1990年代には観念学派を含む18世紀フランス哲学の復刊が始まり、再評価、再検討が行われている[7]

観念学派

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コンディヤックの還元論的な要素分解とそ再構成による「分析」と記号言語論が、18世紀後半-19世紀初頭のフランス自然科学(ラヴォワジェ化学の元素記号はコンディヤックの理想言語論の実践であった)にもたらした成果に刺激を受けた観念学派の探求は、

  • 「生理学的観察」にもとづいて生物としての「人間」の感覚や思惟といった「諸能力」を記述しようとする「生理学的観念学
  • 「意識の観察」にもとづいて思索しようとする「合理主義的観念学

のふたつに大別できる[8]。村松正隆は「生理学的イデオロジー」の代表として医学者でもあるカバニスを、「合理主義的イデオロジー」の代表として観念学の名付け親でもあるデステュット・ド・トラシーを挙げている[9]

参考文献

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  • 松永澄夫 編『哲学の歴史〈第6巻〉知識・経験・啓蒙―18世紀 人間の科学に向かって』8章「観念学派とその周辺」執筆:村松正隆、中央公論新社、2007年6月、572-596頁。ISBN 4124035233 
  • 伊藤邦武 編『哲学の歴史〈第8巻〉社会の哲学 18-20世紀』4章「十九世紀フランス哲学の潮流」執筆:川口茂雄、中央公論新社、2007年11月。ISBN 412403525X 
  • 松永澄夫『哲学史を読む II』東信堂、2008年6月。ISBN 4887138369 
  • 合田正人19世紀フランス哲学--「人間の科学」の光と翳」『明治大学人文科学研究所紀要』第62巻、明治大学人文科学研究所、2008年3月、31-65頁、ISSN 05433894NAID 40016177402 
  • ジャン・ルフラン著、川口茂雄(監修)長谷川琢哉・根無一行(訳)『十九世紀フランス哲学』白水社文庫クセジュ、2014年3月。ISBN 978-4560509890 
  • ミシェル・フーコー 著、渡辺一民、佐々木明 訳『言葉と物 -人文科学の考古学』(25版(1991年5月))新潮社、1974年6月5日。ISBN 410506701X 

脚注

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  1. ^ 1.松永澄夫『哲学史を読む II』東信堂、2008年6月。 pp.220-221.
    2.より正確には、1801年に発表された『仏共和国のエコール・サントラルのための観念学原論の計画』を1803年から刊行され始めた『観念学原論』の第一巻とした。同書、p.243(註4) (以下、『哲学史を読むII』と略す)
  2. ^ 「ラヴォワジェの著作にはコンディヤックの影響が色濃く見られ、ラマルクはその著作の冒頭に、分析の方法への賛辞を書き記」した。「(*コンディヤック)のこの分析の方法によってのみ、あらゆる学問が真の進歩を遂げ、この学に関わる諸対象が混乱なく完全に認識されうる(ラマルク『動物哲学緒論』)」(略)「この方法は化学的現象に向けられればラボワジェの成果に結実し、生命現象に向けられときには、ビシャの組織分類に結実する。(『哲学の歴史〈第6巻〉』8章「観念学派とその周辺」村松正隆、2007年、572-573頁。  以下『哲学の歴史6』と略す)
  3. ^ ルイ16世を処刑した革命派の元聖職者で、革命後は師範学校の設立などに尽力した。引用文は、師範学校設立のための演説の一部(『哲学の歴史6』,p.273-4,および註2)
  4. ^ スタンダール『恋愛論』訳:生島遼一,鈴木昭一郎、人文書院、1972年。14頁.(『哲学の歴史6』p.575より孫引き。太字は引用者)
  5. ^ コトバンク<イデオロジスト【idéologiste[フランス】>]
  6. ^ 『言葉と物』第7章 五「観念学と批判哲学」および固有名詞索引"デステュット・ド・トラシ""ビシャ"並びに"コンディヤック"。ほか、観念学と直接名指ししなくても「人文諸科学」として多数の箇所で論じている中にはかなり観念学派が含有されている。(言葉と物 1974)(原著:1966)
  7. ^ 合田正人「19世紀フランス哲学--「人間の科学」の光と翳」『明治大学人文科学研究所紀要』第62巻、明治大学人文科学研究所、2008年3月、31-65頁、ISSN 05433894NAID 40016177402 
  8. ^ 例えばミシェル・フーコーは『言葉と物』の中で、「われわれの近代性の発端は」「《人間》とよばれる経験的=先験的二重体がつくりだされた日に位置づけられる」として「そのとき、二種類の分析の誕生が認められた。ひとつは、肉体の空間に宿り、知覚や感覚器官のメカニズムや運動神経の図式や物と有機体に共通する分節などの研究」「もうひとつは、人類の諸幻想の研究をつうじて」とコンディヤックを起源とする18世紀フランス哲学の位置を描写した。『言葉と物』第九章「人間とその分身」。338-339頁
  9. ^ 『哲学の歴史6』(執筆:村松正隆)、576頁.

関連項目

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外部リンク

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