親繁王(ちかしげおう)とは平安時代中期の皇族式明親王の次男。醍醐天皇の孫。

概要

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天徳5年(961年)前武蔵権守源満仲の邸宅に一味を引き入れて強盗に押し入る。部下の倉橋弘重が捕らえられ、その供述により清和天皇の皇孫源蕃基宮内丞中臣良材とともに親繁が犯人であったことが判明。検非違使に追われ、父、式明親王の館に匿われる。式明は「親繁は邸内にいるが重い痢病を患って起居に堪えない。回復すれば引き渡す」という旨を上申するが、宣旨により官人が派遣されて式明は家宅捜査を受けた。すでに親繁を始め一味は逃亡済であった。捜索の手は他の皇族にまで及び、成子内親王の邸宅にて一味である紀近輔がようやく捕らえられたが、結局親繁王の行方は知れなかった。父式明は親繁を引き渡さず、悪事をいい加減に取り扱ったとして罰せられたという。[1][2]その後の消息は不明。

系図

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  • 母:不詳
  • 子:不詳

脚注

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  1. ^ 『扶桑略記』天徳5年5月10日条。
  2. ^ 『古事談』4,勇士