西部ニューギニア戡定作戦

西部ニューギニア戡定作戦(せいぶニューギニアかんていさくせん)は日本軍が1942年3月から4月にかけて行った作戦。別名は「N作戦[1]ニューギニア西部各地の攻略や掃蕩が行われた。

西部ニューギニア戡定作戦
戦争太平洋戦争
年月日1942年3月31日 - 同年4月23日
場所オランダ領東インド、西部ニューギニア
結果日本軍の勝利
交戦勢力
大日本帝国の旗 大日本帝国 オランダの旗 オランダ
指導者・指揮官
大日本帝国の旗 藤田類太郎
戦力
水上機母艦1
軽巡洋艦1
駆逐艦及び哨戒艇6
その他陸戦隊など
マノクワリ守備隊125名
南方作戦

経過

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1942年3月5日、大本営はジャワ作戦後に蘭印ニューギニア方面の敵掃蕩や要地占領を行うよう連合艦隊司令長官に命令。作戦を実施する蘭印部隊の指揮官は3月11日に第十一航空戦隊司令官藤田類太郎少将に作戦準備を命じ、3月15日に藤田少将を指揮官とするN攻略部隊が編成された。

アンボンに集結したN攻略部隊は3月29日夜から30日早朝にかけて出撃し、以下の場所の攻略、掃蕩を実行した。

上記完了後、N攻略部隊はマノクワリに集結し作戦を終了した。4月23日、N攻略部隊の編制は解かれた。

攻略後、マノクワリ、ファクファク、テルナテ、ブラ、バボには警備のための部隊が置かれた。

参加兵力

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第一軍隊区分
  • N攻略部隊(指揮官:第十一航空戦隊司令官藤田類太郎少将)
第二軍隊区分
ブラ攻略後発令。詳細不明。援護隊を第一援護隊と第二援護隊に分けたもよう。また、ブラ攻略後に特設砲艦「億洋丸」と第四警備隊附属の高角砲4門が攻略部隊から除かれ、クーパン飛行場の対空防御強化にまわされた。

その後

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オランダ軍のマノクワリ守備隊は内陸部に撤退し、山中で孤立した状態で自活を続けながら散発的なゲリラ戦を続けたという。1944年8月にドベライ半島のサンサポールにマッカーサー率いるアメリカ軍からなる連合国軍が上陸したことを知るとジャングルを踏破してサンサポールまで向かいアメリカ軍に合流した[2]

脚注

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  1. ^ 戦史叢書54 南西方面海軍作戦 第二段作戦以降 39頁
  2. ^ L, Klemen (1999–2000). “The capture of Manokwari, April 1942”. Forgotten Campaign: The Dutch East Indies Campaign 1941–1942. 2024年9月17日閲覧。

参考文献

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関連項目

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